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御義口伝 宝塔品 第十~第十一 全741頁 新1033

釈尊が宝塔を開くところです。「ここに釈迦牟尼仏、右の指をもって七宝塔の戸を開きたもう。大音声をいだすこと、関鑰(けんやく)を却(さ)けて大城の門を開くが如し」と述べられているところの御義口伝です。

 

第十 「如却関鑰開大城門(関鑰を却けて、大城の門を開くがごとし)」の事

  補註の四に云わく「この『開塔見仏(塔を開いて仏を見る)』は、けだし所表有るなり。何となれば則ち『開塔』は、即ち『開権(権を開く)』なり。『見仏』は、即ち『顕実(実を顕す)』なり。これまた前を証し、また将に後を起こさんとするのみ。『如却関鑰』とは、『却』は除なり。障り除こり機動くことを表す。謂わく、法身の大士、惑を破し理を顕し、道を増し生を損ずるなり」。
  御義口伝に云わく、「関鑰(けんやく)」とは、謗法であり、無明である。「開」とは、我らが成仏をあらわす。「大城門」とは我らが色心の二法である。「大城」とは、色法である。「門」とは、口のことである。

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、無明の惑障却けて、己心の釈迦・多宝住するなり。「関鑰」とは、無明である。「開」とは、法性のことである。「鑰」とは、妙の一字になる。天台云わく「秘密の奥蔵を発く。これを称して妙となす」。妙の一字をもって「鑰」と心得べきである。この経文は、謗法不信の関鑰を却(しりぞ)けて己心の仏(仏界)を開くということである。「開仏知見(仏知見を開く)」、これを思うべきである。

 

<講義より>

煩悩即菩提の哲理の文である。関鑰(けんやく)とは、扉の鍵のこと。御義口伝では、謗法、無明なりと仰せである。なぜか、それは扉の鍵それ自体では、未だに内部の価値はありえない。したがって、煩悩、九界をさしておられるがゆえである。「開とは仏界のことであり、成仏を意味する。結句は信心の二字が「開」となる。

「大城門」とは大城が色法、門が心法を意味する。色心不二の生命のことである。

 

 

第十一 「摂諸大衆皆在虚空(諸の大衆を摂めて、皆虚空に在きたもう)」の事

 

<説明>釈尊が宝塔の中に入って、多宝と並んで座り更に大衆をも虚空におくのである。そこのところの御義口伝です。


  御義口伝に云わく、「大衆」とは、聴衆である。「皆在虚空(皆虚空にあり)」とは、我らが死の相をあらわしている(われらの生命が大宇宙に冥伏し、死の相を現じているのである)。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するのを、「皆在虚空」と説いているのである。生死即涅槃と被摂するなり。「大地」とは色法なり、「虚空」とは心法なり。色心不二と心得べきなり。「虚空」とは寂光土なり。
  また云わく、「虚空」とは蓮華なり。経とは「大地」なり。妙法は「天」なり。「虚空」とは中なり。一切衆生の内、菩薩、蓮華に座するなり。これを妙法蓮華経と説かれたり。経に云わく(法華経提婆達多品には)「若在仏前、蓮華化生(もし仏前に在らば、蓮華に化生せん)」。(すなわち、もし御本尊の前にあって、信心修行に励んでいくならば、因果俱時で成仏の境涯をうることができるというのである。)