御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

止暇断眠御書 富木殿御書 969頁 54歳御作

止暇断眠御書という別名があるので、よくわかる人はピーンとくる一節があると思います。最後のところで「我が門家は夜は眠りを断ち、昼は暇(いとま)を止(とど)めて之を案ぜよ、一生空(むな)しく過ごして万歳悔ゆること勿(なか)れ」と言われています。

本抄は年号の記載がないので何年に書かれたのかは不明ですが、建治元年(1275年)8月23日。もしくは建治2年、もしくは、文永10年8月23日とする説があります。

法華経や涅槃経の文を引いて正法誹謗の恐ろしさをいい、竜樹・天親が経論を守護した事例を示し、日本国の弘法・慈覚・智証等の真言師が大日経第一の義を立てて、法華経を誹謗し、一切衆生もその誤りに気付かなかった、と述べられています。

 

 

 

 富木殿御書 建治元年 五十四歳御作
 与富木常忍
 妙法蓮華経の第二に云く「もし人信ぜずして此の経を毀謗し、経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん、其人命終して阿鼻獄に入らん、ないし是の如く展転して無数劫に至るであろう」第七に云く「千劫阿鼻獄において(大苦悩を受けた)」第三に云く「三千塵点(の間成仏できずにいた)」第六に云く「五百塵点劫(の間、六道に堕してきた)」等云云、涅槃経に云く「悪象の為に殺されては三悪に至らず悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」等云云、堅慧(けんね)菩薩の法性論(宝法論)に云く「愚にして正法を信ぜず、邪見及び憍慢なるは過去の謗法の障りなり。不了義(権教)に執着して供養恭敬されることにに執着し、ただ邪法を見て善知識から遠離して謗法者の小乗の法に楽著する。このような衆生に親近して大乗を信ぜず、故に諸仏の法を謗ず。智者は怨をなす家・蛇・火・毒・因陀羅・霹靂・刀杖・諸の悪獣・虎狼・師子等を畏れるべきではない。それらはただよく命を断じて人をして、畏るべき阿鼻獄に入れることはできない。畏るべきは深法(深遠な妙法)を謗ることと、及び謗法の知識(友人)である。決定して(必ず)人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ、悪知識に近づきて悪心にして仏の血を出だし、及び父母を殺害し、諸の聖人の命を断じ、和合僧を破壊し、及び諸の善根を断つとしても一念を正法に繫げることによって、能(よ)く彼の処(阿鼻地獄)をのがれ悟りを得るであろう。

もし、またほかの人がいて甚深の法を誹謗せば、彼の人無量劫にも解脱を得ないであろう、若し人衆生をして是の如きの法を覚信せしめば、その人は我が父母亦是れ善知識なり。彼の人は是智者なり、如来の滅後に邪見顚倒を廻して(正して)正道に入れるがゆえに、三宝に対する清浄の信をもち、菩提(悟りを得させる)功徳の所作をなす者である」等云云、竜樹菩薩の菩提資糧論に云く「五無間(五逆罪による無間地獄)の業を説かれている。もしいまだ理解していないの深法(深遠の法)に対して執着を起こして仏説でないというのは・・・前の五無間等の罪を集めてこの罪と比べると百分の一にも及ばない」云云。


 夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く大火は少しの水をも畏怖し、大樹は小鳥にあっても枝を折られる。智人は恐怖すべし大乗を謗ずる故に、天親菩薩は舌を切らんと云い、馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い、吉蔵大師は身を橋と為し、玄奘三蔵は何が正法かをインドの霊地に行って占い、不空三蔵は疑いを天竺(インド)にいって解決し、伝教大師は此れを異域(中国)に求めた。皆上に挙ぐる所は経論を守護するためであった。
 今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆上主上上皇より下臣下万民に至るまで皆一人ももれなく、弘法・慈覚・智証の三大師の末孫・檀越なり。円仁=慈覚大師云く「(法華経を含めて)華厳等の経は如来の秘密の教えを説き尽くしてないが故に真言と異なるのである」円珍=智証大師云く「華厳・法華を大日経に望むれば戯論と為す」空海弘法大師云く「(法華や華厳等は)後(の真言)に望むれば戯論と為す」等と云云、此の三大師の意は法華経は已・今・当の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云。此の義を心有らん人は信ずべきであろうか。
 今日本国の諸人が悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも此に超過し以て恐怖すべきこと百千万億倍なるものは、持戒・邪見の高僧等である。

問うて云く、上に挙ぐる所の三大師を謗法と疑うか。叡山第二の円澄寂光大師・別当光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳・此等の数百人、弘法の御弟子実慧・真済・真雅等の数百人、並びに八宗・十宗等の大師や先徳は日と日と・月と月と・星と星とが並びに出でたような方々である。既に四百余年を経歴するに此等の人人一人として此の義を疑っていない。汝何なる智を以て之を難ずるや云云。
 等の意を以て之を案ずるに我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ、恐恐謹言。

八月二十三日 日 蓮花押
 富 木 殿
 鵞目一結給び候畢んぬ、志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか。

 

講義より:

大聖人が最後で問いに対する答えを書かず、門家に対して、止暇断眠をもって案じていけと言われているお言葉を、心から拝していかなければならない。真言宗に限らず、人々を誤謬に陥れる悪知識はいつの世にも充満している。その誤りをつき人々を正法に目覚めさせるには、不断の研鑽、実践が大切である。その使命を忘れて一生を空しく過ごしたならば、その悔いは万歳に残るとの仰せである。地涌の眷属の使命はこの上なく大きい。(371頁)