御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

兵衛志殿御書 1095頁 新版御書1492頁 57歳御作

弘安元年(1278年)九月九日、身延で著され、池上宗長に与えられた御消息です。別名を「親父(しんぷ)入信御書」といいます。

文字通り池上兄弟の父・康光が入信したことを喜ばれたお手紙です。

 

(178)

兵衛志殿御書(親父入信の事)

 弘安元年(ʼ78)9月9日 57歳 池上宗長

 久しく便りもありませんでしたので、非常に心配しておりました。何よりもあわれに(尊く)ふしぎなことは、【お兄さんの】大夫志殿と殿(あなた)との御事を、ふしぎに思っております。
 常例では、世が末になれば、聖人・賢人もみなかくれて、ただ、ざんじん(讒人)・ねいじん(倭人)・わざん(和讒=表面は和やかだが陰にまわって人を陥れる人)・きょくり(曲理=理を曲げて我意を通す人)の者ばかりが国には充満するようになると見経文に書かれている。喩えば、水がすくなくなれば池がさわがしく、風ふけば大海の面がしずかでないようなものです。このような末代になると、かんばつ・えきれい・大雨・大風ふきかさなり、広き心もせまくなり、道心ある人も邪見になるように見えてくる。それゆえ、他人はさておいて、父母と夫妻と兄弟と諍うこと、猟師としかと、ねことねずみと、たかときじとのようであると経文に見えます。
 良観等の天魔の法師らが、親父・左衛門大夫殿をだまし、あなた方二人を失わんとせしに(退転させようとしましたが)、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちいありしゆえに、二つの輪が車をたすけ、二つの足が人を担うように、二つの羽で飛ぶように、日月が一切衆生を助けるように、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、ひとえに貴辺(兵衛志殿)の御身【信心】によるものです。

また真実の経の御ことわりは、時代が末法になって仏法が非常に乱れた時には、大聖人(仏)が必ず世に出現するだろうとあります。喩えば、松は霜がおりて後も枯れないので木の王といわれ、菊はほかの草が枯れた後にも花を咲かせるので、仙草というのと同じです。世の中がおさまっているときには賢人は見えない、世が乱れているときこそ聖人と愚人は明らかに顕れるのです。気の毒にも、平左衛門殿やさがみ殿が日蓮のいうことを用いられていたならば、先年の蒙古国の朝使のくびは、よもや斬ることはなかったでしょう。【今になって】悔やんでおられることでしょう。
 人王八十一代安徳天皇と申す大王は、天台座主・明雲等の真言師等数百人かたらいて、源右将軍頼朝を調伏せしかば、「還って本人に著きなん」とて、明雲は義仲に切られぬ、安徳天皇は西海に沈み給う。人王八十二・三・四、隠岐法皇・阿波院・佐渡院・当今、已上四人、座主慈円僧正・御室・三井等の四十余人の高僧等をもって平将軍義時を調伏し給うほどに、また、「還って本人に著きなん」とて(還著於本人の経文通りに)、上の四天王はそれぞれ島々に配流されました。
 この(真言の)大悪法は、弘法・慈覚・智証の三大師が法華経最第一の釈尊の金言を破って法華最第二・最第三、大日経最第一と読んだ僻見であり、これを信用したために、今生には国と身とをほろぼし、後生には無間地獄に堕ちてしまったのです。


 今度はまた、真言宗による調伏は三度目になります。今、我の弟子等で、すでに死んでいる人々は仏眼をもってこれを見ておられるでしょう。命長らえて生きている人は肉眼でこれを見なさい。国主等は捕虜となって他国へ連れ去られ、調伏した僧達は、あるいは狂い死に、あるいは他国に出奔し、あるいは山林にかくれるでありましょう。教主釈尊の御使いを二度まで街路を引き回し、弟子等をろうに入れ、あるいは殺し、あるいは害し、あるいは所・国を追い出したために、その罪科は必ずその国々・万民の身に一々にかかるべし(一人ひとりに及ぶでありましょう)。あるいはまた白癩・黒癩、諸の悪重病におかされる人々が多くなるでしょう。我が弟子等、このことをよく知っていきなさい。恐々謹言。
  九月九日    日蓮 花押
  この文は、別しては兵衛志殿へ、総じては我が一門の人々で御覧なさい。他人に聞かせてはなりません。

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