第二 「阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)」の事
疏の一に云わく「『憍陳如』は、姓なり。ここには『火器』と翻ず。天台の法華文句の第一巻には「憍陳如(きょうじんにょ)は、姓である。漢語では火器と翻訳する。
婆羅門種なり。バラモン階級である。
その先、火に事(つこ)う。その先祖が火に仕えていたという。
これによって族(ぞく)に命づく。一族全体に憍陳如(火器)という姓がつけられたゆえんがここにある。
火に二義有り。火に二つの働きがある。
照らすなり、焼くなり。照らすことと、焼くことである。
照らせば即ち闇生ぜず、焼けば則ち物生ぜず。照らせば闇が生じないし、焼けば物が生じない。
これは『不生』をもって姓となす」。いずれにしても生じないという意味で不生を姓としているのである。
御義口伝に云わく、「火」とは、法性の智火なり。大聖人が言われるには「火」とは法性の智火を意味する。
火の二義とは、一つの「照らす」は、随縁真如の智なり。火の二つの意義のうち、一つの「照らす」というのは随縁真如の智である。
一つの「焼く」は、不変真如の理なり。もうひとつの「焼く」は、不変真如の理である。
「照」「焼」の二字は、本迹二門なり。「照」「焼」の二字は本門と迹門の二門を意味している。
さて、火の能作としては「照らす」「焼く」の二徳を具うる南無妙法蓮華経なり。さて、火の作用として照焼の二徳を具えるといえども、南無妙法蓮華経に両者とも含まれているものである。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、生死の闇を照らし晴らして、涅槃の智火明了なり。今、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経を唱え奉ることは、生死の闇を照らし晴らして、涅槃の智火が明了(みょうりょう)にあらわれることである。
生死即涅槃と開覚するを、(文句では)「照らせば則ち闇生ぜず」とは云うなり。生死即涅槃と開覚することを、(文句では)「照らせばはすなわち闇は生じない」といっているのである。
煩悩の薪を焼いて、菩提の慧火現前するなり。(また妙法を唱えることは)煩悩の薪を焼いて、菩提の慧火が目の前に現れることである。
煩悩即菩提と開覚するを、「焼けば則ち物生ぜず」とは云うなり。煩悩則菩提と開覚することを、文句では「焼は即ち物生ぜず」といっているのである。
ここをもってこれを案ずるに、「陳如」は我ら法華経の行者の煩悩即菩提・生死即涅槃を顕したり云々。このようにみていくと、結局、陳如はわれら法華経の行者の、煩悩即菩提、生死即涅槃をあらわしているのである。
<講義より>(p100)
仏法というのは生命の根本解決の原理である。(中略)法華経序品の儀式も全部釈尊己心の生命に展開された儀式である。阿若憍陳如も同じく釈尊己心の阿若憍陳如なのである。むろん、釈尊の弟子の中に実在していたことと思う。しかし大聖人の示し論じられる阿若憍陳如は、具体的な一人を指すというより、生命論の上から論じた阿若憍陳如という生命活動を意味するそうです。
法性の智火とは知識を生活に応用していく智慧のことです。一瞬一瞬の行動が智慧の発露です。善悪共に智慧は働き、妙法の智恵こそが個人を幸福に、社会を繫栄させ、世界平和を実現していく真実の智恵なのです。智慧を働かして人を殺めたり、戦争を起こしたりしてる輩がいますが、野獣以下の最低の悪智慧ではありませんか。
ここで智慧の智に「火」がついていて智火といわれるには理由がある。
火に二つの意義があるからです、「照らす」、と「焼く」。
例をあげます。
太陽が自ら燃焼していること、たえず摂氏6000度の熱を発しながら燃焼し続けている。それは「焼」。そして、燃焼していること自体は不変真如の理に当たる。今度は太陽の熱が地球に届き、光が地球を照らして、人間や万物に影響を与える、これが随縁真如の智ということです。
南無妙法蓮華経は、照焼の二徳を具えているというのは、照は随縁真如の智であり、焼は不変真如の理だから、この両方を具えているということです。
生死の闇を照らし晴らして
ここでいう生死について、これは苦しみという意味の生死をさしています。
生死には3つの意味があります。1つは生命それ自体をさす。2つめは生老病死という意味です。3つめは苦しみという意味。
涅槃の智火明了するなり
涅槃は悟り。末法における「悟り」とは「信」の一字にに尽きると。御本尊を疑わないということが信心であり、末法の悟りなのです。以信代慧の原理で仏の智恵となってあらわれるのです。題目をあげ妙法と境智冥合して悠々と人生を歩んでいける智慧が発揮され、事実の上に功徳を受け幸福になっていくことが「智火明了」になっている証拠と言えるでしょう。
生死即涅槃と開覚する
いかなる人生の苦しみも悟りへと変えていけるということです。「照は則ち闇生ぜず」に通ずる所です。
煩悩の薪を焼いて、菩提の慧火現前するなり。
煩悩とは人間の欲望であり悩みをいう。爾前経、特に小乗教では煩悩を断じ尽くそうとしたけれども、法華経では煩悩を断ずる必要はないとされました。真実の仏法では煩悩即菩提なのです。煩悩のたきぎを焚いて菩提の慧火現前するなりといわれているように、煩悩は題目をあげることで智慧に変わるのです。
煩悩即菩提と開覚するを、「焼けば則ち物生ぜず」とは云うなり
なんというか、ここだけすっきりわからなかったところです。焼けば物が生じない!?
物を燃やせば何も出てこないですよね。何を意味しているのか。煩悩即菩提となれば、つまり題目をあげて煩悩を悟りに変えて、宿命も使命に変えて、信心に励んで幸福になっていけば、もう同じ煩悩で悩むことがないということでしょうか。物生ぜずってとこが、どういうこと?ってなってる私です。