御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

四条金吾殿御返事 1116頁 2021年9月度座談会御書(1117頁18行目) 51歳御作

別名「煩悩即菩提御書」 

文永9年5月2日、大聖人が51歳のとき、佐渡一谷で著され、四条金吾に送られたお手紙です。4月に佐渡まで大聖人を訪問したことに対するお礼の意味で送られました。大聖人の法門は狭いようで深く天台伝教の法門よりも一重立ち入った本門寿量品の三大事であり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するので狭いようだが一切衆生を救えるので深いのである。最後に「法華経四条金吾四条金吾」と讃えられていきなさいと励まされています。短いお手紙の中にもすごい法門が説かれています。。

とりわけ佐渡以後に認められた御書は御本仏としてのお立場から書かれています。本門文底の南無妙法蓮華経が、釈尊法華経と違うということを、太陽と月のたとえなどで教えられています。

2月に四条金吾に送られた「開目抄」の要中の要ともいうべきところが、簡潔に書かれている大事な御消息です。

座談会御書の範囲を赤字にしました。【】はわかりやすいように書き足した説明です。

 

四条金吾殿御返事 文永九年五月 五十一歳御作

 日蓮が遭った諸難の際には、訪ねてきてくださること、今に始まったことではないあなたの厚い志を、ありがたく思っております。法華経の行者として、このような大難にあったことは悔しいとは思っておりません。どれだけ多く生をうけ、死に遭遇したとしても、是ほどの果報の生死はないでしょう。又三悪道・四悪趣に堕ちたであろうこの身が、今は生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となれば、よろこばしいことである。
 天台・伝教等は迹門の理の一念三千の法門を弘められたことですら、なお怨嫉の難に遭われた。日本においては伝教より義真・円澄・慈覚等が相伝して弘められた。第十八代の座主は慈慧大師である。御弟子は数多くいた。その中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜という四人(の高弟)がいた。法門もまた二つに分れていた。檀那僧正【天台宗の檀那流を創した覚運のこと】は教相の法門を伝え、慧心僧都は観心の法門を学んだ。されば教相と観心とは日月(太陽と月)のようなものである。教相は浅く観心は深い。されば檀那の法門は・広くて浅い。慧心の法門は狭くて深い。
 日蓮が弘通する法門は・狭いようであるが、甚だ深いのである。その故は彼の天台・伝教等が弘められた法よりは一重立ち入っているからである。【文底独一】本門寿量品の三大事とはこのことである。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するのであるから狭いように思われる。しかしながら三世の諸仏の師範であり、十方薩埵の導師であり、一切衆生皆成仏道の指南であるので、最も深いのである。

(1116頁11行目)経に云く「諸仏の智慧は・甚深無量なり」云云、此の経文にある諸仏とは十方三世の一切の諸仏のことであり、真言宗大日如来、浄土宗の阿弥陀、ないし諸宗・諸経の仏・菩薩・過去・未来・現在の総諸仏・現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げている。次に智慧と言っている。此の智慧とは何ものか。諸法実相・十如果成の法体である。その法体とは又なにものか。南無妙法蓮華経がこれである。釈に云く「実相の深理・本有の妙法蓮華経」といっている。その諸法実相というのも、釈迦・多宝の二仏であると相伝しているのである。諸法をば多宝仏に約し、実相を釈迦仏に約す。是れ又境智の二法である。多宝は境なり、釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証である。此等は非常に大事な法門である。煩悩即菩提・生死即涅槃と云うのもこれである。まさしく男女交会(なんにょこうえ=夫婦生活のこと)のとき南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃と云うのである。

生死の当体が不生不滅と覚ることより外に生死即涅槃はないのである。普賢経に云く「煩悩を断ぜず五欲を離れず諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す」止観に云く「無明塵労は即是菩提生死は即涅槃なり」寿量品に云く「毎(つね)に自ら是の念を作(な)す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速に仏身を成就することを得せしめん」と方便品に云く「世間の相は常住なり」等は此の意である。このように法体といっても全く他のものではなく、ただ南無妙法蓮華経の事である。

(1117頁7行目)このように非常に尊い法華経を過去において膝の下に置いたり、あるいはあなどり、苦々しく口をゆがめ、あるいは信じなかった。あるいは法華経の法門を習って一人でも教化して法の命をつぐ人を、悪心をもってあれこれと何かにつけて愚弄したり嘲笑したりした。あるいは後生のつとめではあるけれども、まず今生は叶い難いので、しばらく止めておけなどと、際限なく忌み嫌って法華経を謗じたことによって、今生において日蓮は種種の大難に遭うのである。
 諸経の頂上たる御経(法華経)を低く置いた罪で、現世において又人に卑しめられ用いられないのである。譬喩品に「人に親しみ近づくとも、その人は心にいれて(かけて)不便と思ってはくれないであろう」と説いている。

ところがあなたは法華経の行者となり、ついには大難にも遭い、日蓮を助けてくださった。法師品の文に「遣化四衆・比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と説かれている。此の中の優婆塞とはあなたの事でなければ誰を指すのであろうか。すでに法を聞いて信受して違背することがないからである。不思議なことである。不思議なことである。もしそうであれば日蓮法華経の法師である事は疑いない。「則ち如来使」にも似た資格を持ち、その行動は如来の事をも行じていることになるであろう。
 多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮がほぼ弘めたのである。これ即ち上行菩薩の御使いであるか。あなたは又日蓮にしたがって法華経の行者として諸人に語っている。これこそ流通ではないか。

法華経の信心を貫き通しなさい。火を起こすのに、休んでしまったら火を得ることはない。強盛の大信力をだして法華宗四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。(人は)悪名でさえ流すものだ。まして善き名を流すのは当然である。まして法華経ゆえの名はいうまでもない。

女房にもこのことを言い含めて日月・両眼・双の翼(つばさ)のように、二人がしっかりと力を合わせていきなさい。日月がともにあるならば、冥途の闇があるはずがない。両眼があれば(釈迦・多宝・十方分身の)三仏の御顔を拝見できることは疑いない。双の翼があれば寂光の宝刹へ飛ぶこともほんの一瞬である。くわしくは又又申しあげる。恐惶謹言。
 五月二日 日 蓮花押
 四条金吾殿御返事

 

〈語句の説明〉

 生死を切断:生死はここでは悪業の因縁によって六道の世界を繰り返すといった意味。生死を切断というのは苦しみの流転を断ち切るということであるが、妙法においては切断とは無に帰することではなく、煩悩即菩提、生死即涅槃と転ずるのである。

 

このように非常に尊い法華経を過去において膝の下に置いたり、あるいはあなどり、苦々しく口をゆがめ、あるいは信じなかった。あるいは法華経の法門を習って一人でも教化して法の命をつぐ人を、悪心をもってあれこれと何かにつけて愚弄したり嘲笑したりした。あるいは後生のつとめではあるけれども、まず今生は叶い難いので、しばらく止めておけなどと、際限なく忌み嫌って法華経を謗じたことによって、今生において日蓮は種種の大難に遭うのである。

 ここのところの感想ですが、過去世で法華経誹謗など数々やってきたために今世で難にあうということが書かれていて、しかも大聖人がそうなんだと書かれている。世間の罪は全然犯してないのに、法華経を膝の下に置くだけでも難にあうのか・・・と思いました。今、学会の悪口言ってる人は将来難にあうのが決まってるってことでしょうね。

入信した当時、御書を畳に置いただけで注意されました。膝の上に置きなさいと。御書の上に物を重ねて乗せたら𠮟られました。そういうことでしょうね。今はそういうこともあまり注意されませんけど・・・

仏の上に物を置くなってことでしょう。厳しい。(御書=仏の金言集ですしね、地べたに置くなということは理解できるけど、なかなかそういうことが身についてなくて困る)

今回の座談会御書は、妙法受持の人は現実社会の中で、仕事もしっかりやって実証を示すとともに、人柄もよく、優しく、人のために良く動くような、万人から慕われていきなさいというご指導ですね。

ずっと家庭の中にいる婦人であっても、実証は家庭の中に現れると思います。子供を立派に育てることも、家計をしっかり切り盛りするのも、全部信心をもとに頑張りなさいということだと思います。そのうえで学会活動もしっかりやって折伏もできるだけやって、というふうにとらえていけば、立派な幹部の人はたくさんの学会員に慕われて、名前もどんどん広まりますよね。組織のなかでうたわれてると言えますね。