御書大好き!!

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御義口伝 第三 全710頁 新987頁

第三 「阿闍世王(あじゃせおう)」の事


  文句の一に云わく「『阿闍世王』とは、未生怨(みしょうおん)と名づく」。

また云わく「大経(涅槃経)に云わく『阿闍世とは、未生怨と名づく(名づける)』と」。

また云わく「大経(涅槃経)に云わく『阿闍とは不生(ふしょう)と名づけ、世(せ)とは怨(おん)と名づける』と」。

 御義口伝に云わく、日本国の一切衆生は「阿闍世王」なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。無量義経に云わく「諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず」。謗法の人、今は母の胎内に処しながら法華の怨敵たり。あに「未生怨」にあらずや。その上、日本国当世は三類の強敵なり。「世者名怨(世とは怨と名づく)」の四字、心を留めてこれを案ずべし。

日蓮大聖人が言われるには、日本国の一切衆生は「阿闍世王」である。すでに諸仏の父を殺し、法華経という母を害しているからである。無量義経にいわく、「諸仏の国王と、この経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生むのである。」と。謗法の人、今は母の胎内にいながら法華の怨敵である。まさに未生怨ではないか。その上日本国当世(現在)の人々は皆、俗衆、道門、僣聖増上慢の三類の強敵である。世者名怨(世とは怨と名づく)の四字に心を留めてよくよく考えなさい。

 

日蓮等の類い、この重罪を脱(まねが)れたり。日蓮大聖人門下はこの重罪を免れている。(犯さないですむのである)

謗法の人々、法華経を信じ釈尊に帰し奉れば、何ぞ已前の殺父・殺母の重罪滅せざらんや。たとえ以前に謗法を犯した人々であっても、法華経を信じ、日蓮大聖人に帰依するならば、以前の諸仏の父と法華経の母を殺害するという重罪がどうして滅しないわけがあろうか。
  ただし、父母なりとも、法華経不信の者ならば、殺害すべきか。ただし、父母であっても、法華経不信の者であれば、その謗法の心を殺害すべきである。※つまり、謗法の教えを信じるのをやめさせろってことです。謗法への執着心を断ち切るべきであると。

その故は、権教に愛を成す母、権教方便・真実を明らめざる父をば、殺害すべしと見えたり。その理由は権教に執着している母や、方便の教えか真実の教えか、わからなくなってる父は殺すべきだと経文にある。※実際に殺すというより、これは折伏して真実最高の法華経を信ずる父母として蘇生させなければならないということでしょう。

よって、文句の二に云わく「観解とは、貪愛の母・無明の父これを害するが故に逆と称す。逆は、即ち順なり。非道を行じて、仏道に通達す」。よって、法華文句の第二巻には「天台家の観念観法により貪愛という母も、無明という父も、これを害するから逆罪ではあるが、その逆はそのまま順となるのである。そのわけは、父母を害することは非道であり、逆罪であるが、それが即仏道に通達することになるがゆえに逆即順なのである」と。

「観解」とは、末法当今は題目の観解なるべし。観解とは、文句では天台の観念観法をいうが、末法当今では、受持即観心であり、題目を唱えることが観解なのである。

子として父母を殺害するは「逆」なり。子として父母を殺害するのは逆である。

しかりといえども、法華経不信の父母を殺しては「順」となるなり。しかし、法華経不信の父母を殺すのは順となるのである。

ここをもって「逆は、即ちこれ順なり」と釈せり。それゆえ文句の二では「逆は、すなわちこれ順なり」と釈したのである。
  今、日蓮等の類いは、「阿闍世王」なり。今、日蓮と門下は「阿闍世王」なのである。

その故は、南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛・無明の父母を害して、教主釈尊のごとく仏身を感得するなり。そのわけは、南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛の母と無明の父を殺害して、(※教主釈尊のようにと言われているが、本当のところは)久遠元初の自受用報身如来と等しく仏身を感得するからである。

「貪愛の母」とは、勧持品の三類の中、第一の俗衆なり。「貪愛の母」とは、勧持品二十行の偈に説かれている三類の強敵のうち第一の俗衆増上慢である

「無明の父」とは、第二・第三の僧なり云々。「無明の父」とは、第二の道門増上慢、第三の僣聖増上慢の邪僧たちである。

 

講義より

大聖人は二つの立場から阿闍世王について述べられています。

第一に、謗法の人を指して阿闍世王なりと。「日本国の一切衆生は「阿闍世王」なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。」

第二に、信心ある者が阿闍世王なりと。「今、日蓮等の類いは、「阿闍世王」なり。その故は、南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛・無明の父母を害して、教主釈尊のごとく仏身を感得するなり。」

 

第一と第二は真逆やん、なんでこうなるの?って思った人はすごい!

そもそも阿闍世王という人がすごい宿命と使命をもって生まれてきたんですね。

阿闍世はサンスクリット語です。訳せば未生怨、法逆ともいうそうです。未生怨のいわれは、大般涅槃経(だいはつねはんきょう)等によれば、父の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)に世継ぎの子がなく、山中に住む仙人が死後、太子となって生まれると占い師が言ったことを待ちきれずに仙人を殺した。やがて生まれた男子は占い師が王の怨となると言ったことから、未生怨(阿闍世)と名づけられた。阿闍世は長じて悪逆の提婆達多と組み、父を殺し釈尊に反逆したが、後に後悔して釈尊の弟子となり、仏典の結集等、仏法の外護に努めた。

 

日蓮大聖人は他人を怨み、人を害するという、人間が本来備えた生命の傾向を「阿闍世王」と名付けられた。(第一の阿闍世王の意味)怨むという感情に支配され流されていけば不幸である。この感情を意のままに使い切って、人生を楽しみ切っていくことが理想である。大聖人は「令離諸著」の離を「明らむ(離れる=無くすのではなく明らかに見ていく)」と言われています。諸々の執着を明らかに見ていくということです。そうすれば煩悩や怨念に振り回されるのではなく、つまり阿闍世王という生命の傾向性を全部幸せのほうへ転換していける。これが「逆即是順」と言われたゆえんではないでしょうか。一口に怨むと言っても何を怨むかが問題だし、また、怨むときのその人の心が問題なのです。

大聖人を怨み、御本尊を怨むことは悪の中の極悪となる。その時怨む人の心は魔の心であり、正しい道理を素直に聞けない、ゆがんだ心である。

しかし、真に民衆の事を思い、戦争を憎み、平和を願い、敢然と戦う姿は、これも真の阿闍世王の姿である。また、謗法を憎み、相手の幸福を考え、折伏する姿は、これぞ真の阿闍世王である。(第二の阿闍世王の意味)