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御義口伝 第四 全711頁 新988頁

第四 「仏所護念(仏の護念したもうところ)」の事


  文句の三に云わく「『仏所護念』とは、無量義処は、これ仏の証得したもうところなり。法華文句の第三にいわく「『仏所護念』というのは、無量義はことごとく妙法蓮華経の一法より生ずるということを証得した仏の境涯である。

この故に如来の護念したもうところなり。このゆえに如来はこれを護念するのである。

下の文に『仏自住大乗(仏は自ら大乗に住したまえり)』と云えり。※仏はすでに妙法蓮華経を証得しており、大乗の境涯に住していたのである。

開示せんと欲すといえども、衆生の根は鈍なれば、久しくこの要を黙して、務めて速やかには説きたまわず。故に『護念』と云う」。この妙法を開き示そうとしたが衆生の機根が鈍根であるので、いきなり法華経を説かず、四十余年の長い間この要を黙って務めて速やかには説かなかったので、護念というのである」と。
  記の三に云わく「昔はいまだ説かず。故にこれを名づけて『護』となす。記の三には「昔の経、すなわち四十余年の間には妙法蓮華経を説かなかったので、このことを名付けて『護』というのである。

法に約し、(法の立場から論じ)機に約し、(衆生の機根の立場から論じ)皆護念するが故に(皆護念するがゆえに)。乃至時機なおいまだ発せざれば、隠して説かず、故に『護念』と言う(乃至、機根がいまだに薫発しておらず、仏は妙法を秘し隠して説かなかったので、護念というのである)。

乃至いまだ説かざるをもっての故に護し、いまだ暢べざるをもっての故に念ず。(乃至未だ出世の本懐たる法華経を説かなかったことを護といい、未だ外に向かって説かず内に念じていたので念というのである。)

『久黙(久しく黙す)』と言うは、昔より今に至るなり。(文句に「久しく黙す」というのは釈尊が三十成道してから法華経の説時まで四十余年の長い期間をさすのである。

『斯要(この要)』等の意、これを思って知るべし」。「斯の要」というのは、このことをもって知るべきである。
  御義口伝に云わく、この「護念」の体においては、本迹二門の首題の五字なり。大聖人が言われるには、この「護念」の本体は何かといえば爾前経に対すれば本迹二門であり、さらに一重立ち入ってみれば、南無妙法蓮華経の五字七字である。

この護念において、七種の護念これ有り。この護念については七種類の護念がある。

一には時に約し、二には機に約し、三には人に約し、四には本迹に約し、五には色心に約し、六には法体に約し、七には信心に約するなり云々。(約すとは、その立場から論ずるという意味)

今、日蓮等の類いは、護念の体を弘むるなり。今、日蓮と門下は、護念の体である南無妙法蓮華経をひろめているのである。
  一に時に約すとは、仏、法華経を四十余年の間、いまだ時至らざるが故に護念したもうなり。

二に機に約すとは、「破法不信故 墜於三悪道(法を破して信ぜざるが故に、三悪道に墜ちなん)」の故に、前の四十余年の間、いまだこれを説かざるなり。

三に人に約すとは、舎利弗に対して説かんがためなり。(法華経を理解できる舎利弗の出現を待ったということ)

四に本迹に約すとは、護をもって本(本門)となし、念をもって迹(迹門)となす。(※すなわち身をもって護りきるということは実践であり、本門である。護ろうと念ずることは心の中で思うことであり、迹門なのである。)

五に色心に約すとは、護をもって色(しき)となし、念をもって心となす。護とは実践の行動であり、あらわれたる姿であるゆえに色となる。念とは精神活動であり、心(しん)である。

六に法体に約すとは、法体とは本有常住なり、一切衆生の慈悲心これなり。※法体とは生命の本質であり、妙法のことである。一切衆生はことごとく妙法の当体であり、永遠の生命なのである。妙法を唱えることによって、我が生命の中にあった仏界という力強い大生命が湧現し、大いなる慈悲心が生ずるのである。この永遠に続く力強い大生命の実体、慈悲に満ち満ちた生命の本質が一切衆生にあるということを四十余年護念して説かなかったのである。

七に信心に約すとは、信心をもって護念の本(根本)となすなり。※信心がなければ護念した本体を証得することができない。われ仏なりと開悟することができないからである。
  詮ずるところ、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、しかしながら護念の体を開くなり。所詮日蓮と門下が南無妙法蓮華経と唱えることは護念の体たる妙法を開き、われ仏なりと事の一念三千の当体なりと開悟することになるのである。

護とは、仏見なり。護とは、身をもって護ることであり、仏見である。?

念とは、仏知なり。念とは御本尊を念ずることであり、仏知である。?

この知・見の二字は、本迹両門なり。この仏界を知見するということを本門、迹門の両門に説かれているのである。

仏知を妙と云うなり。仏見を法と云うなり。仏知を妙といい、仏見を法という。※すなわち妙は仏界、法は九界である。

※御本尊に題目を唱えることは、仏の智恵を観ずるゆえに仏知である。また、仏の生命そのものをわが身に感得していくから仏知である。それが源泉となり慈悲心が湧き、生命力が湧き、功徳が湧いてくるのであるから妙である。仏見ということは、事実の生活の上で功徳の生活をしてく現実の姿であり、現象であるから法なのである。

この知見の体を修行するを、蓮華と云うなり。※この知見の体である妙法を修行することによって成仏することができる。修行することは因であり、成仏は果である。ゆえに南無妙法蓮華経を唱える時に未来のありとあらゆる福運は、この瞬間に含まれるのである。この因果俱時の生命活動の本質を蓮華というのである。

因果の体なり。因果の言語は、経なり。因果の体とは御本尊であり、また境智冥合の原理によって我々の生命が因果の当体である。妙法を唱えるその声は経であると同時に御本尊を受持した生活の一切の言々句々は、ことごとく妙法のあらわれであり、経なのである。

しかのみならず、法華経の行者をば、三世の諸仏護念したもうなり。それだけでなく、一切の三世の諸仏はたんに妙法蓮華経を護念するだけでなく、末法法華経の行者である日蓮大聖人を護念するのである。

普賢品に云わく「一者為諸仏護念(一には諸仏に護念せらる)」と。

「護念」とは、妙法蓮華経なり。もとより護念とは妙法蓮華経を護念することである。

諸仏の法華経の行者を護念したもうは、妙法蓮華経を護念したもうなり。しかし、三世十方の諸仏が法華経の行者を護念することが、即妙法蓮華経をを護念することになる。

機法一同して護念一体なり。機すなわち人と法とは、一同であり、三世十方の諸仏は法を護念すると同時に人をも護念するのである。

記の三に釈して「法に約し、機に約し、皆護念するが故に」と云うは、この意なり。
  また、文句の三に云わく「『仏所護念』とは、前の地動瑞を決定するなり」。

地動は、六番に惑を破ることを表すなり。地動説は六番破惑をあらわしている。

妙法蓮華経を受持する者は、六番に惑を破ること疑いなきなり。(省略)

神力品に云わく「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑(我滅度して後において、応にこの経を受持すべし。この人は仏道において、決定して疑いあることなけん)」。(省略)

「仏自住大乗」とは、これなり。「仏は自ら大乗に住したまえり」とあるのはこのことである。
  また一義に、仏の衆生を護念したもうことは、護とは「唯我一人 能為救護(ただ我一人のみ、能く救護をなす)」、念とは「毎自作是念(つねに自らこの念を作す)」、これなり。普賢品に至って「一者為諸仏護念(一には諸仏に護念せらるることを為(え)」と説くなり。

日蓮大聖人は生年三十二より南無妙法蓮華経を護念するなり。日蓮は立宗宣言已来、ただ南無妙法蓮華経を護念あそばされてきたのである。

 

<講義より>

現代の日本には「仏所護念」ということばをまるで見当違いな読み方をする邪教があると言われています。仏を亡くなった先祖ととらえて先祖が我々を護念するというのです。霊友会仏所護念会等がそのたぐいです。

 

法華経の中に「仏所護念」という言葉は数か所見られるが、これは『説大乗経。名妙法蓮華。教菩薩法。仏所護念』という一連の句をなしているので、仏所護念だけで意味をなしているのではない。全体で一文をなしているのである。すなわち妙法蓮華経と名付け奉る大乗経であって、菩薩に教える大事な経であり、三世諸仏(決して死人ではない)、すなわち仏になられた方々が、心から護り念じてきた経である」との意味なのである。

 

法華経を時の来るまで護念したということは、大聖人の立場で論ずれば、大聖人は建長五年四月二十八日に、南無妙法蓮華経を立宗宣言され、直ちに強敵が雲のごとく押し寄せてきた。時を待たずに御本尊を図顕しておられたら、大変であったと思われる。すぐさま破ったり流されたりされたことだろう。佐渡に行かれるまで御本尊を顕されなかったのは一切衆生を地獄に堕とさないため、護念してくださったと解釈できるわけである。