弘長二年(1262年)一月十六日、日蓮大聖人が41歳の時、流罪地の伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)から安房国天津の領主・工藤吉隆に与えられた御消息です。別名「伊豆御勘気抄」といいます。
吉隆は建長から正嘉のころに四条金吾、池上宗仲らと前後して入信し、大聖人が伊豆流罪中にも御供養をお届けしており、文永元年(1264年)の小松原法難のときに身命を捨てて大聖人をお守りした純真な信徒です。本抄は吉隆からの御供養か手紙を届けた使いに託されたものと考えられ
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四恩抄
弘長2年(ʼ62)1月16日 41歳 工藤殿
そもそも、(日蓮が)この(伊東)流罪の身になったことについて、二つの大事がある。
一には大いなる悦(よろこ)びがある。その故は、この世界をば娑婆(しゃば)と名づける。娑婆というのは忍ということである。故に、仏をば能忍と名づけるのである。この娑婆世界の内に、百億の須弥山、百億の日月、百億の四州がある。その中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出現されたのである。この日本国は、その仏の世に出でておられる国よりは丑寅(東北)の角(すみ)にあたる小島である。
この娑婆世界より外の十方の国土は、皆浄土であるから、人の心もやわらかに、賢聖(けんじょう、けんせい)をののしったり憎むこともない。(しかしながら)この国土は、十方の浄土に捨て果てられてしまった。十悪五逆、賢聖を誹謗する、父母に孝せざる、沙門を敬(うやま)わざる等の科(とが)の衆生が、三悪道に堕ちて無量劫を経て、かえってこの世界に生まれてきたが、前世の悪業の習気(しゅうき=身についた習慣)が失(うしな)えないで、ややもすれば十悪五逆を作り、賢聖をののしり、父母に孝養をせず、僧侶をも敬わないのである。
故に、釈迦如来が世に出現されたところ、ある者は毒薬を食に雑えて奉り、あるいは刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗(あくく=あくいぬ)等の手段をもって仏を害そうとし、ある者は仏は女人を犯すと云い、ある者は仏は卑賤の者だといい、ある者は仏を殺生をした者だといい、ある者は行き合う時は顔を覆(おお)って仏を見ないようにしたり、あるいは戸を閉じ窓を塞(ふさ)ぎ、あるいは国王・大臣の諸人に向かっては、「仏は邪見の者である。高貴な人を罵(ののし)る者である」などと言ったのである。これらのことは大集経・涅槃経等に見えている。
これという失(とが)も仏にはなかったけれども、ただこの国の悪癖・片輪として、悪業の衆生が生まれ集まった上に、第六天の魔王がこの国の衆生を他の浄土へ出すまいとはかりごとをして、このように、事にふれて非道なことをするのである。
この謀(はかりごと)も、詮ずるところは、仏に法華経を説かせまいとの料簡と見える。その理由は、第六天の魔王の常の習いとして、三悪道の業を作る者を悦び、三善道の業を作る者をなげく。また、三善道の業を作る者にはそれほどなげかず、(声聞・縁覚・菩薩の)三乗となろうとする者を大変なげく。また、三乗となる者にはそれほどなげかず、仏となる業をなす者を非常になげき、事にふれて妨害をなすのである。法華経は一文一句であっても、それを聞く者は既に仏になるであろうと思って、たいへん第六天の魔王もなげき思う故に、方法を巡らせて留難をなし、法華経を信ずる心を捨てさせようとたくらむのである。
そうではあるが、仏の在世の時は濁世とはいえども、五濁の始めであった上に、魔王は仏の御力を恐れ、人の貪瞋癡・邪見も強盛でないときであった。それでも竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放って三界の独尊(=釈迦)をおどし奉り、提婆達多(だいばだった)は証果(しょうか=悟り得た)の阿羅漢(あらかん)・蓮華比丘尼(れんげびくに)を害し、瞿伽利尊者(くぎゃりそんじゃ)は智慧第一の舎利弗の悪口をいい立てた。
ましてや、世が次第に五濁の盛りになった仏滅護の世においては、それ以上であるのはいうまでもない。いわんや、世末代に入って、法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそねみ、ねたまれることは、非常におびただしいであろう。故に、法華経に云わく「如来の現在ですらなお怨嫉(おんしつ)が多い。いわんや滅後(めつご)においては、いうまでもない」云々。
始めにこの経文を見た時は、それほどでもないだろうと思っていたが、(流罪された)今こそ「仏の御言(みことば)はまちがっていなかった」と、殊(こと)に身に当たって思い知ったのである。
日蓮は身に戒を行ずることもなく、心が三毒から離れてはいないけれども、「この御経(法華経)を、もしや我も信を取り、人にも縁を結ばせることになるか」と思って、それゆえに、かなり世間の私に対する扱いもおだやかになるだろうと思っていた。世が末になってしまったので、妻子を帯している僧も人の帰依をうけ、魚鳥を食べる僧も帰依を受けている。日蓮は、そのように妻子を帯することもなく、魚鳥をも食せず、ただ法華経を弘めんとする失(とが)によって、妻子を帯せずして犯僧(はんそう=破戒の僧)の名が四海に満ち(国中に広がり)、螻蟻(あり)をも殺してはいないのに悪名は天下にはびこってしまった。
恐らくは、在世に釈尊を諸(もろもろ)の外道が毀(そし)ったのに似ている。「これひとえに、法華経を信ずることが人よりも少し経文通りに正しく信を向けたゆえに、悪鬼が世間の人の身に入って嫉妬をするのであろうと思われる」そう考えれば、これ程の卑賤・無智・無戒の者である自分のことが、二千余年已前に説かれた法華経の文にのせられて、「留難に値うであろう」と仏が記しおかれたことのうれしさは言い尽くし難いことである。
この身に仏法を学んで、ようやく二十四・五年になる。法華経を殊(こと)に信じまいらせたことは、わずかにこの六・七年より以降のことである。また、信じてはいたけれども、懈怠(けたい)の身の上である上に、あるいは学文(研究)といい、あるいは世間のことに妨げられて、一日にわずかに一巻・一品・題目ばかりであった。去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日のほどは、昼夜十二時(24時間・休む暇なく!)に法華経を修行していると確信している。その故は、法華経の故にこのような身(流罪の身)となったのであるから、行住坐臥(ぎょうじゅうざが=いっさいの立ち居振る舞い)に法華経を読み行じているのと同じである。人間に生を受けて、これほどの悦びは、ほかにあるであろうか。
凡夫の習いとして、自ら励んで菩提心をおこして後生を願うといっても、自ら思い出だして、十二時(一日)の間に一時二時くらい励むにすぎないであろう。日蓮は思い出さなくても、法華経をよみ、口に読まなくても、法華経を行じていることになっている。無量劫の間、六道四生を輪回していたときには、あるいは謀叛をおこし、強盗・夜打ち等の罪にてこそ国主より処罰を受け、流罪・死罪にも処せられたことであろう。
このたびは法華経を弘めようと思う心が強盛であったことによって、悪業の衆生に讒言(ざんげん)されて、このような身になったのであるから、定めて(必ず)後生の勤め(成道)のためにはなるであろうと確信する。これほどの、作為のない昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有りがたいことではないか。
また格別に喜ばしいことがある。無量劫の間、六道に輪廻してきた間には、多くの国主に生まれ値い、あるいは寵愛(ちょうあい)された大臣・関白等にもなったであろう。もしそうであれば、国を給わり、財宝・官禄の恩を受けたことであろう。
法華経流布の国主に値い奉り、その国にて法華経の御名を聞いて修行し、これを行じて讒言(ざんげん)され、流罪に処してくれた国主には、いまだ値ったことがなかったのである。法華経に云わく「この法華経は無量の国の中において、乃至名字をも聞くことを得べからず。ましてや、見ることを得て受持し、読誦することのできないのはいうまでもない。」云々。それゆえ、この讒言の人や国主こそ、我が身には恩の深き人であるといえよう。
仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきであろう。四恩とは、心地観経に云わく、一には一切衆生の恩。一切衆生なくば、衆生無辺誓願度の願を発すことは難しい。また、悪人無くして菩薩に留難をなさなければ、どうやって功徳を増長していくことができようか。
二には父母の恩。六道に生を受くるに、必ず父母あり。その中に、あるいは殺盗・悪律儀・謗法の家に生まれぬれば、我とその科を犯さざれども、その業を成就す。しかるに、今生の父母は、我を生んで法華経を信ずる身としてくれた。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて、三界・四天をゆずられて、人天四衆に恭敬せられんよりも、恩の重きは今の私の父母である。
三には国王の恩。天の(日月星の)三光によって身をあたため、地の五穀に神を養うこと、皆これ国王の恩なり。その上、今度法華経を信じ、今度生死を離るべき国主に値えたのである。どうして多少の怨によっておろそかに思うことができようか。
四には三宝の恩。釈迦如来、無量劫の間、菩薩の行を立てられたときに、一切の福徳を集めて六十四分と成して、功徳を身に得られた。その一分をば、我が身に用いられた。今、六十三分をば、この世界に留め置いて、五濁雑乱の時、非法の盛んならん時、謗法の者国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光勢力減ぜん時、日月光を失い、天竜雨をくださず、地神地味を減ぜん時、草木、根・茎・枝・葉・華・菓・薬等の七味も失わん時、十善の国王も貪・瞋・癡をまし、父母六親に孝せずしたしからざらん時、我が弟子の無智・無戒にして髪ばかりを剃って守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘・比丘尼の命のささえとせんと誓われたのである。
また果地の三分の功徳(また仏は成道によって得た果徳の寿命を三つに分け)、二分をば我が身に用いられ、仏の寿命百二十まで世にましますべかりしが、八十にして入滅し、残るところの四十年の寿命を留め置いて我らに与えられた。その恩というものは、四大海の水を硯の水とし、一切の草木を焼いて墨となして、一切のけだものの毛を筆とし、十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも、どうして仏の恩に報いることができようか。
法の恩を言えば、法は諸仏の師である。諸仏の貴いことは法によるのである。そうであれば、仏恩を報ぜんと思う人は法の恩に報いるべきである。
次に僧の恩をいえば、仏宝・法宝は必ず僧によって住す(伝えていくことができる)。譬えば、薪なければ火無く、大地無ければ草木は生じない。仏法があるといえども、僧がいて習い伝えなければ、正法・像法二千年過ぎて末法へ伝わることはない。
故に、大集経に云わく「五箇の五百歳の後に、無智・無戒なる沙門を失ありと云ってこれを悩ますは、この人、仏法の大灯明を滅せんと思え」と説かれたり。しかれば、僧の恩を報じ難し。
されば、三宝の恩を報じなさい。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、これらは皆、我が身を鬼神の餌食とし、身の血液と骨髄をうり、臂(ひじ)をたき(燃やし)、頭を捨てた。しかるに、末代の凡夫、三宝の恩を受けて三宝の恩を報じない。どうして仏道を成ずることができようか。しかしながら、心地観経・梵網経等には、仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずるであろうと書かれている。
日蓮は愚癡の凡夫・血肉の身なり。三惑、一分も断じていない。ただ法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪されたことで、大聖の臂を焼き、髄をくだき、頭をはねられたるになぞらえんと思う。これ一の悦びなのである。
第二に大いなる歎きと申すは、法華経第四に云わく「もし悪人有って、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏前において、常に仏を毀罵(きめ)すれば、その罪はなお軽い。もし人、一つの悪言をもって、在家・出家の法華経を読誦する者を毀呰(きし)せば(謗ったならば)、その罪ははなはだ重い」等云々。
これらの経文を見るに、信心を起こし、身より汗を流し、両眼より涙を流すこと雨のごとし。我一人、この国に生まれて、多くの人をして一生の業を造らせてしまうことを歎くのである。彼の不軽菩薩を打擲(ちょうちゃく)した人、現身に改悔の心を起こせしだにも、なお罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちてしまった。今、我に怨(あだ)を結べる輩(やから)は、いまだ一分も悔ゆる心をおこしていない。これらの人の受くる業報を、大集経に説いていうには「『もし人あって、千万億の仏の所(みもと)にして仏身より血を出だそうとしたらどうなるか。この人の罪は多いかどうか』。
大梵王が仏に言うには『もし人がいて、ただ一仏の身より血を出しただけでも、無間の罪、なお多い。無量にして、計算機をおいても、数えることができない。それほどの長い間、阿鼻大地獄の中に堕ちるであろう。ましてや万億の仏身より血を出ださん者を見んをや。終によく広く彼の人の罪業・果報を説き尽くせる人はないであろう。ただし、如来をば除いて』。仏の言わく『大梵王、もし我がために髪をそり袈裟をかけ、片時も禁戒をうけず、その者をなやまし、のり、杖をもって打ちなんどすることあらば、罪をうること、彼(万億の仏の身より血を出す者)よりも多いのである。』と」。
弘長二年壬戌正月十六日 日蓮 花押
工藤左近尉殿