随喜品二箇の大事
第一 「妙法蓮華経随喜功徳」の事
随喜功徳品第十八の題号である、随喜功徳についての観心釈である。
御義口伝に云わく、「随」とは、事・理に随順するをことをいう。「喜」とは、自他共に喜ぶことである。
事とは、五百塵点の事顕本に随順することである(本門寿量品第十六の説法に随順し、信受するとの意味である)。
理とは、理顕本に随うことである(迹門方便品第二の説法を信受し、随順するとの意味である)。
詮ずるところ(所詮)、寿量品の内証(三大秘法の南無妙法蓮華経)に随順することを、随喜の「随」というのである。
しかして、自他共に智慧と慈悲があることを、「喜」というのである。
所詮、今、末法において、日蓮等の類い(大聖人とその門下が)、南無妙法蓮華経と唱えるとき、必ず無作の三身の仏に成るのを、「喜」というのである。
しかるに、「随」とは法に約し、「喜」とは人に約すのである。人とは五百塵点の古仏たる釈尊(=久遠元初の自受用身如来)であり、法とは寿量品の(文底独一本門の)南無妙法蓮華経である。これに随い喜ぶのを、「随喜」とはいうのである。
総じて「随」とは、信の異名である。ただ信心のことを、「随」というのである。ゆえに、法華経の二の巻には「随順此経 非己智分(この経に随順す。己が智分にあらず)」と、信をもってよく入ることを説かれたのである。
事顕本理顕本が書かれていますが、これは事理ともに南無妙法蓮華経の御本尊に含まれているということになります。人に約しても法に約してもどちらも南無妙法蓮華経の御本尊になるので、私たちは御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えて成仏することができるということです。
私が思うに、これが結論です、「純真に御本尊に疑いなく題目を唱えていけば自他ともに幸せになる、成仏もそこにある」ということです。
難しく書かれているようで、実は簡単な話ではないでしょうか。
第二 「口気無臭穢 優鉢華之香 常従其口出(口の気は臭穢無くして、優鉢華の香は、常にその口より出ず)」の事
御義口伝に云わく、「口気(くけ)」とは、題目なり。「無臭穢(むしゅうえ)」とは、弥陀等の権教・方便・無得道の教えを交えないこと。「優鉢華之香(うばつけしこう)」とは、法華経のこと。
末法の今は題目なり。方便品の「如優曇鉢華(=にょうどんばっけ、優曇鉢華/スイレンのごとき)」のことを、一念三千と約する。これを思慮しなさい。
「常」とは、三世常住ということ。「其口」とは、法華の行者の口である。「出」とは、南無妙法蓮華経の題目が出るということ。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「常従其口出」なのである。
<講義より>
信心強盛に題目を唱えていくならば、その人のあらゆる生命活動が人々に爽快さと、喜びと、希望を与えていくようになる。それは、単なる人当たりのよさとか、困ってる人をうまく慰めるとかいう、表面だけのことではない。
苦しみや悲しみをぬぐいさって、心からの安心感を与えると同時に、新しい前進の意欲と指針とを与えていくのである。ほのぼのとした暖か味と、崇高な香気が、身辺に漂っているような、庶民の味方であり、社会の指導者、無冠の王者になっていくことである。