御書大好き!!

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御義口伝 常不軽品 第十五 全766  新1067頁

第十五 「於如来滅後(如来滅して後において)」等の事

 

【常不軽品において、仏が得大勢菩薩に向かって「得大勢、当に知るべし、この法華経は大いに諸の菩薩摩訶薩を饒益(にょうやく)して、能く阿耨多羅三藐三菩提に至らしむ。この故に諸の菩薩摩訶薩如来の滅後において、常に応(まさ)にこの経を受持し読誦し解説し書写すべし」と述べているところである。】


  御義口伝にはこう仰せである。不軽菩薩の修行はこれまで説ききった如くであるからそれと同じように、仏の滅後に五種に妙法蓮華経を修行しなさいと説かれている。正しく「是故(ぜこ=この故に)」より下の二十五字は、末法日蓮等の類いのことである。既に、「是故」とおさえて、特に「於如来滅後」と説かれている。流通の品であるが故である。総じては、流通とは未来当今のために説かれたのである。

法華経一部は、一往は在世のためであり、再往は末法当今のためである。その故は、妙法蓮華経の五字は、三世の諸仏が共に認め証明して、未来滅後の者のために説かれた大白法だからである。

(二十八品の)品々の法門は題目よりでたところの用である。根本の当体である妙法が末法衆生のためのものであるならば、そこから出た用である品々が、なんで用の品々が別のものである道理があろうか。

この法門は今まで誰も説かなかったものであるから、秘密にしなさい、秘すべし。天台の「綱維(こうい)を提(ひっさ)ぐるに目(もく)として動かざることなきがごとし」【題目を鋼維、二十八品を網の目に譬えているのである。】等と釈しているのはこの意である。

妙楽大師は「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」と。【すなわち、題目の中に一部八巻二十八品の全体が収まっていると述べている】

これらを心得ない者は、末法の弘通において資格がない者である。

 

<講義>

末法弘通の独一本門と法華経文上の法門との違いを明確に述べられている。しかして、この違いを知らざる者は末法の弘通の資格がないと、厳しく戒められている。 

 

すなわち末法に弘通すべき大法は、南無妙法蓮華経である。これが大白法である。法華経二十八品はその説明であり、大綱に対する網目である。

(中略)

 六道の凡夫は、現在のこと、過去のことしか考えられないものである。自分自身が一瞬後にどうなるかさえわからないものだ。しかるに仏は遠く未来を見通し、未来の一切衆生の救済を考えておられるのである。所詮、万法を己心におさめ、一切を見通していかれる大智慧のゆえであり、全民衆を一人も残らず幸福にしきっていくとの大慈悲のゆえである。もとより、凡愚の衆生がそれと同じことができるわけもないが、その精神はあらゆる世界において通じると言える。現在だけしか考えない、無計画な行き当たりばったり主義は、政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、最も智慧のない、下の下に属する

 常に未来をどうするか、どのように発展させていくかを考え、そのための施設を遺(のこ)し、人材を育て、原理、教訓を打ち立てていく。それが文化資産であり、高い水準の文明を築いていく源泉なのである。それをなしゆく指導者こそ、最も偉大な指導者といえるであろう。