方便品八箇の大事
第一方便品の事
文句の三に云わく「『方』とは、秘なり。『便』とは、妙なり。妙に方に達するに、即ちこれ真の秘なり。
(「方とは秘であり、便とは妙である。妙に方に達する、すなわち、妙法という万法の根源に秘密のうちに達することが、真の秘なのである。)
内衣の裏に無価(むげ)の珠を点くると、王の頂上にただ一珠有ると、二無く別無し。客作の人を指すに(諸国を遍歴してきたところの窮子(ぐうじ))は実はこれ、これ長者の子にして、また二無く別無し。かくのごときの言は、これ秘なり、これ妙なり。
(衣裏珠の譬えにある無価の珠を調べてみると、その宝珠と安楽行品の髻中明珠の譬えにある転輪聖王の頂上にあった珠とは、まったく同じ意である。信解品第四の長者窮子の譬えにある客作の人すなわち諸国を遍歴してきた窮子は実は長者の子にほかならなかったのである。これこそ九界即仏界であり、我々の生命の中に真実に清浄無染で力強い仏界の生命があるということであり、秘であり、妙である。)
経の『唯我知是相 十方仏亦然(ただ我のみ、この相を知れり。十方の仏もまたしかなり)』『止止不須説 我法妙難思(止みなん、止みなん。説くを須いず。我が法は妙にして思い難し)』のごとし。故に、秘をもって『方』を釈し、妙をもって『便』を釈す。正しくこれ今の品(=方便品)の意なり。故に(秘妙という意味で)『方便品』と言うなり」。
記の三に云わく「第三に秘妙に約して釈すとは、妙をもっての故に即なり。円をもって即となし、三つを不即となす。故に、さらに不即に対して、もって即を釈す」。
御義口伝に云わく、この釈の中に「一珠」とは、衣裏珠即ち頂上珠なり。「客作の人」と「長者の子」と、全く不同これ無し。詮ずるところ、謗法不信の人は体外の権にして、法用・能通の二種の方便なり。ここをもって二無く別無きにあらざるなり。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、これ秘妙方便にして体内なり。故に、「妙法蓮華経」と題して、次に「方便品」と云えり。
妙楽、記(法華文句記)の三に釈して、本疏の「即ちこれ真の秘なり」の「即」を、「円をもって即となす」と消釈せり(解釈している)。即は円なれば、法華経の別名なり。即とは、凡夫即極、諸法実相の仏なり。円とは、一念三千なり。即と円と、言は替われども、妙の別名なり。一切衆生、実相の仏なれば、妙なり、不思議なり。謗法の人、今これを知らざるが故に、これを「秘」と云う。
また云わく(大聖人は次のようにも仰せられている)、法界三千を、「秘妙」とは云うなり。秘とは、きびしきなり、三千羅列なり。これより外に不思議これ無し。大謗法の人たりというとも、妙法蓮華経を受持し奉るところを、妙法蓮華経方便品とは云うなり。
今、末法に入って、正しく日蓮等の類いのことなり。妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るるを、妙法蓮華経方便品とは云うなり。これを即身成仏とも如是本末究竟等とも説く。
また、「方便」とは、十界のことなり、または無明なり。妙法蓮華経は、十界の頂上なり、また法性なり。煩悩即菩提・生死即涅槃これなり。
「円をもって即となす」とは、一念三千なり。妙と即とは、同じものなり。「一字の一念三千」ということは、円(圓)と妙とを云うなり。円とは、諸法実相なり。円とは、釈に云わく「円は円融円満に名づく」。円融は迹門、円満は本門なり。または止と観との二法なり。または我らが色心の二法なり。
「一字の一念三千」とは、恵心流の秘蔵なり。「囗」は一念なり、「員」は三千なり。一念三千とは、不思議ということなり。この妙とは前の三教(蔵・通・別の前三教)にいまだこれを説かず。故に「秘」と云うなり。故に知んぬ、南無妙法蓮華経は、一心の方便なり。妙法蓮華経は、九識なり。十界は、八識已下なり。心を留めてこれを案ずべし。「方」とは即ち十方、十方は即ち十界なり。「便」とは、不思議ということなり云々。
<感想>
ここで一番大事なことは秘妙方便。
秘とは仏と仏のみがよく知っていること、妙とは衆生の思義しがたい境涯をいう。なかなかわからないのが秘妙方便なのです。わが一念の中の仏界が顕現できるほど御本尊と境地冥合していくことが大事。