御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

第三 唯以一大事因縁の事  全集716頁  新版996頁

ちゃんと読まなければわかりにくいところです。難しいです。でも、ここは頑張ってわからないといけないって思いました。

本文は長いですが、講義は意外と短かったです。

一大事因縁を生命論の上からわかることですね。

生命の尊厳こそ一切の社会、人類にとって根本中の根本、大事の中の一番の大事であるとわかることです。

先に御書全集から写します。

 

第三唯以一大事因縁の事 

文句の四に云く一は即ち一実相なり五に非ず三に非ず七に非ず九に非ず故に一と言うなり、其の性広博にして五三七九より博し故に名けて大と為す、諸仏出世の儀式なり故に名けて事と為す、衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す。
御義口伝に云く一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云、又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり云云、又云く我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字止観の二字寂照の二徳生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思うに仏とは九界の衆生の事なり、此の開覚顕れて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏知見と云うなり、師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり、悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云、又云く四仏知見とは八相なり開とは生の相なり入とは死の相なり中間の示悟は六相なり下天託胎等は示仏知見なり出家降魔成道転法輪等は悟仏知見なり、権教の意は生死を遠離する教なるが故に四仏知見に非ざるなり、今経の時生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳と開覚するを四仏知見と云うなり、四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召し世に出現したもうなり、此の開仏知見の法華経法然は捨閉閣抛と云い弘法大師は第三の劣戯論の法とののしれり、五仏道同の舌をきる者に非ずや、慈覚大師智証等は悪子に剣を与えて我が親の頭をきらする者に非ずや云云、又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す、日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は衆生有此機感仏故名為因の人なり、夫れが為に法華経の極理を弘めたるは承機而応故名為縁に非ずや、因は下種なり縁は三五の宿縁に帰するなり、事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり、一とは一念・大とは三千なり此の三千ときたるは事の因縁なり事とは衆生世間・因とは五陰世間・縁とは国土世間なり、国土世間の縁とは南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり、経に云く「閻浮提内広令流布使不断絶」是なり云云。

以上は全集より転載しました、下に新版御書より転載しましたが、やっぱり間が空いてて読みやすいですね。

 

第三 「唯以一大事因縁(ただ一大事の因縁をもって)」の事
  文句の四に云わく「『一』は則ち一実相なり。五にあらず、三にあらず、七にあらず、九にあらず。故に『一』と言うなり。その性、広博にして、五・三・七・九より博し。故に名づけて『大』となす。諸仏出世の儀式なり。故に名づけて『事』となす。衆生にこの機有って仏を感ず。故に名づけて『因』となす。仏、機を承けて応ず。故に名づけて『縁』となす。これを出世の本意となす」。
  御義口伝に云わく、「一」とは、法華経なり。「大」とは、華厳なり。「事」とは、中間の三味なり。法華已前にも三諦あれども、砕けたる珠は宝にあらざるがごとし云々。
  また云わく、「一」とは、妙なり。「大」とは、法なり。「事」とは、蓮なり。「因」とは、華なり。「縁」とは、経なり云々。
  また云わく、我らが頭は妙なり。喉は法なり。胸は蓮なり。胎は華なり。足は経なり。この五尺の身、妙法蓮華経の五字なり。この大事を、釈迦如来、四十余年の間、隠密したもうなり。今経の時、説き出だしたもう。この大事を説かんがために、仏は世に出でたもう。我らが一身は妙法五字なりと「開仏知見(仏知見を開く)」する時、即身成仏するなり。「開」とは、信心の異名なり。信心をもって妙法を唱え奉らば、やがて開仏知見するなり。しかるあいだ、信心を開く時、南無妙法蓮華経と示すを、「示仏知見(仏知見を示す)」と云うなり。示す時に霊山浄土の住所と悟り、即身成仏と悟るを、「悟仏知見(仏知見を悟る)」と云うなり。悟る当体、直至道場なるを、「入仏知見(仏知見に入る)」と云うなり。しかるあいだ、信心の開仏知見をもって正意とせり。入仏知見の「入」の字は、迹門の意は、実相の理の内に帰入するを、入と云うなり。本門の意は、理即本覚と入るなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は、宝塔に入るなり云々。
  また云わく、「開仏知見」の「仏」とは、九界所具の仏界なり。「知見」とは、妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法なり。色心因果なり。詮ずるところ、知見とは、妙法なり。九界所具の仏心を法華経の知見にて開くことなり。ここをもってこれを思うに、仏とは九界の衆生のことなり。この開覚顕れて、今身より仏身に至るまで持つや否やと示すところが、妙法を示す「示仏知見」と云うなり。師弟感応して受け取る時、「如我等無異(我がごとく等しくして異なることなし)」と悟るを、「悟仏知見」と云うなり。悟って見れば、法界三千の己々の当体、法華経なり。この内証に入るを、「入仏知見」と云うなり。秘すべし云々。
  また云わく、四仏知見とは、八相なり。「開」とは、生の相なり。「入」とは、死の相なり。中間の「示」「悟」は、六相なり。下天・託胎等は、「示仏知見」なり。出家・降魔・成道・転法輪等は、「悟仏知見」なり。権教の意は、生死を遠離する教えなるが故に、四仏知見にあらざるなり。今経の時、「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」と開覚するを、四仏知見と云うなり。四仏知見をもって三世の諸仏は一大事と思しめし、世に出現したもうなり。この「開仏知見」の法華経を、法然は「捨閉閣抛」と云い、弘法大師は「第三の劣、戯論の法」とののしれり。五仏道同の舌をきる者にあらずや。慈覚大師・智証等は、悪子に剣を与えて我が親の頭をきらする者にあらずや云々。
  また云わく、「一」とは中道、「大」とは空諦、「事」とは仮諦なり。この円融の三諦は何物ぞ。いわゆる南無妙法蓮華経これなり。この五字は、日蓮出世の本懐なり。これを名づけて事となす。日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は、「衆生にこの機有って仏を感ず。故に名づけて『因』となす」の人なり。それがために法華経の極理を弘めたるは、「機を承けて応ず。故に名づけて『縁』となす」にあらずや。「因」は下種なり。「縁」とは、三・五の宿縁に帰するなり。
  事の一念三千は、日蓮が身に当たっての大事なり。「一」とは一念、「大」とは三千なり。この三千ときたるは、事の因縁なり。「事」とは衆生世間、「因」とは五陰世間、「縁」とは国土世間なり。国土世間の縁とは、南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり。経に云わく「閻浮提内、広令流布、使不断絶(閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん)」、これなり云々。