御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

方便品八箇の大事 第一「方便品」の事 713頁 新版御書994頁

11月の大白蓮華から池田先生の御義口伝講義が始まるそうです。

楽しみです!

それまで私も頑張って御義口伝を拝読していこうと思います。

 

さて、今回から方便品第二に入ります。八つの大事があるということです。

 

第一番目、ここで大事なことは、秘妙方便というワード。法用(ほうゆう)方便、能通方便は爾前経で説く方便であり、真実の方便ではない。方便品の方便とは、これら二種の方便に対して、秘妙方便なのです。秘妙方便とは秘妙門とも訳すべきで、実教のことだそうです。秘とは仏と仏のみが知っているということ。妙とは衆生の思議しがたい境涯のことです。

 

方便品八箇の大事
第一「方便品」の事

(青字で通解を書いています)


  文句の三に云わく「『方』とは、秘なり。『便』とは、妙なり。妙に方に達するに、即ちこれ真の秘なり。

(方便品について、文句の第三に次のように言っている。「方とは秘であり、便とは妙である。妙に方に達する、即ち妙法という万法の根源に秘密のうちに達することが、真の秘なのである。)

 

内衣の裏に無価(むげ)の珠を点くると、王の頂上にただ一珠有ると、二無く別無し。

(五百弟子授記品の衣裏珠の譬えの中にあるあの貧人の衣に縫い付けられた無価の球を調べてみると、その宝珠と、安楽行品の髻中明珠の譬えにある転輪聖王の頂上にあった珠とは、まったく同じ意味である。)

 

客作(かくさ)の人を指すに、これ長者の子にして、また二無く別無し。かくのごときの言は、これ秘なり、これ妙なり。

(信解品第四の長者窮子(ぐうじ)の譬えに出てくる「客作の人」すなわち諸国を遍歴してきたところの窮子は、実は長者の子に他ならなかったのである。これこそ九界即仏界、仏界即九界であり、我々の生命の中に真実に清浄無染で力強い仏界の生命があるということであり、これが秘であり、これが妙である。

 

経の『唯我知是相 十方仏亦然(ただ我のみ、この相を知れり。十方の仏もまたしかなり)』『止止不須説 我法妙難思(止みなん、止みなん。説くを須いず。我が法は妙にして思い難し)』のごとし。

(方便品の経文に『唯(ただ)我が是の相を知れり、十方の仏もまたしかなり。』『止みなん、止みなん、須く説くべからず、我が法は妙にして思い難し』とあり、方便品に説かれるところの妙法蓮華経は不可思議であり、仏のみがよくこれを知ることができるものであるといっているのである。)

 

故に、秘をもって『方』を釈し、妙をもって『便』を釈す。正しくこれ今の品の意なり。故に『方便品』と言うなり」。

 

(故に秘をもって方を釈し、妙をもって便を釈することが、この方便品の意図なのである。この秘妙という意味で方便品というのである。)


 記の三に云わく「第三に秘妙に約して釈すとは、妙をもっての故に即なり。円をもって即となし、三つを不即となす。故に、さらに不即に対して、もって即を釈す」。

(法華文句第三にはこうある。「第三に秘妙に約して釈すとはどういう意味であろうか。特に即是真秘の即とは妙なるがゆえに即なのである。円を以て即となし、三権は不即なのである。すなわち法華経においては宇宙の本源たる妙法蓮華経を説き明かしたのであるから完全無欠であり、円であり、即である。ところが三乗や三教は不完全であり不即である。ゆえにさらに、不即すなわち不完全な教えの法用方便や能用方便に相対して即、即ち完全無欠の秘妙方便を釈したのである」と。)

【補足の言葉が多いですが、講義本の通解を写しているので、よく読んだらわかると思います】【よく読んでもやっぱり頭がこんがらがりますね】

 

 御義口伝に云わく、この釈の中に「一珠」とは、衣裏珠即ち頂上珠なり。

(御義口伝にはこのように仰せです。この法華文句の方便についての釈の中にある「唯一珠有ると二無く別なし」の「一珠」とは衣裏珠であり、即それは頂上珠なのである。[すなわち頂上珠とは仏界であり、最高の宝であり、それがわれわれの生命の中に本年的に備わっているというのが衣裏珠なのである。]

 

客作の「人」と「長者の子」と、全く不同これ無し。

また客作の人と長者の子とはまったく不同がない。[すなわち我等御本尊を信ずるものは則日蓮大聖人とあらわれることができるのである。]

 

詮ずるところ、謗法不信の人は体外の権にして、法用・能通の二種の方便なり。ここをもって二無く別無きにあらざるなり。

(所詮、謗法不信の人は、体外の権であって、法用、能用の二種の方便である。仏法を顕現し、妙法の当体とあらわれることができない。ゆえに文句にいう「無二無別」とはいえないのである。)


  今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、これ秘妙方便にして体内なり。故に、「妙法蓮華経」と題して、次に「方便品」と云えり。

(今、日蓮門下は、南無妙法蓮華経と唱えているのは、これ秘妙方便であり、御本尊の体内である。ゆえに妙法蓮華経と題して、次に方便品というのである。[仏界に照らされた九界の生活を思うがままに、遊戯しきっていけるのである。これこそ妙法の体内の方便である。]


  妙楽、記の三に釈して、本疏の「即ちこれ真の秘なり」の「即」を、「円をもって即となす」と消釈せり。

(妙楽は法華文句記の第三の中で釈して、文句の「即是真秘」の即を「円を以て即と為す」と解釈している。)

 

即は円なれば、法華経の別名なり。即とは、凡夫即極、諸法実相の仏なり。

(即とは円であるから法華経の別名である。即とは、凡夫即極を意味し、有作ではなくして、諸法実相の仏なのである。)

 

円とは、一念三千なり。即と円と、言は替われども、妙の別名なり。一切衆生、実相の仏なれば、妙なり、不思議なり。謗法の人、今これを知らざるが故に、これを「秘」と云う。

(円とは一念三千である。「即」も一念三千、「円」も一念三千、言葉は違うが、ともに同じく妙の別名である。一切衆生はもともと実相の仏であるから妙であり、不思議である。われわれ御本尊を信ずる者は、本来、実相の仏であることを事実の上に権限して知ることができるけれども、謗法不信の者は、これを知ることが出来ないから秘なのである。)


  また云わく、法界三千を、「秘妙」とは云うなり。秘とは、きびしきなり、三千羅列なり。

(また大聖人は次のように言われている。法界三千、すなわち宇宙の森羅万象にことごとく三千の変化がそなわっている。)【妙法はきびしき大宇宙の法則であるともいえるし、また御本尊の姿とも拝せる。御本尊には十界三千の諸法が、一法も欠くことなく備わっているのである。御本尊は宇宙の一切を備えて余すところがないのである。まことにもって厳しい姿ではないか。因果応報だから厳しいのである。】

 

これより外に不思議これ無し。大謗法の人たりというとも、妙法蓮華経を受持し奉るところを、妙法蓮華経方便品とは云うなり。今、末法に入って、正しく日蓮等の類いのことなり。

(これよりほかに不思議なものはない。大謗法の人であっても、所詮は妙法の当体であり、必ず妙法蓮華経を受持するところを、妙法蓮華経方便品というのである。今、末法に入って、日蓮およびその門下のことを指すのである。)

 

妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るるを、妙法蓮華経方便品とは云うなり。これを即身成仏とも如是本末究竟等とも説く。

妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入れるのを【=九界の衆生が妙法を根底にして一切の活動をすることを】、妙法蓮華経方便品というのである。これを即ち即身成仏とも如是本末究竟等ともいうのである。)


  また、「方便」とは、十界のことなり、または無明なり。妙法蓮華経は、十界の頂上なり、また法性なり。煩悩即菩提・生死即涅槃これなり。

(また「方便」とは十界の事である。または無明である。妙法蓮華経は十界の頂上であり、また法性である。煩悩即菩提・生死即涅槃というのはこのことである。)


 「円をもって即となす」とは、一念三千なり。妙と即とは、同じものなり。「一字の一念三千」ということは、円(圓)と妙とを云うなり。

(「円を以て即と為す」とは一念三千なのである。妙と即とは同じものであり、ともに一念三千なのである。)

 

円とは、諸法実相なり。円とは、釈に云わく「円は円融円満に名づく」。円融は迹門、円満は本門なり。または止と観との二法なり。または我らが色心の二法なり。

(円とは諸法実相である。円とは天台の釈に「円は円融円満に名づける」とある。円融は十界互具、百開千如、一念三千の理を説き明かしたところの迹門であり、円満とは現実に仏界を顕現していくことを明かしたところの本門である。または、止観の二法である。止は「とどまる」ことであり、宇宙の本源の動かない理、即ち不変真如の理を意味し、円融である。観とは「観ずる」ことであり、仏界を現ずる智慧であり、随縁真如の智をいい、円満である。また色心二法に約せば、身をもって実践活動していくことは円満である。心は融通無碍であり、よくわが心に万法を浮かべることができるので、円融である。つまり色が円満で、心が円融である。)

 

「一字の一念三千」とは、恵心流の秘蔵なり。

(「一字の一念三千」とは恵心僧都源信を始祖とする恵心流の秘蔵である。円という字は圓と書いたりしますよね。そのことなんですね。↓)

 

「囗」は一念なり、「員」は三千なり。一念三千とは、不思議ということなり。

(「口(くにがまえ)」は一念であり、員(かず)は三千ということである。一念三千とはこのように一念に三千を具するのであるから不思議としかいいようがない。)

 

この妙とは前の三教にいまだこれを説かず。故に「秘」と云うなり。

(この不思議なる実体は蔵通別の前三教には未だこれを説かなかった。ゆえに秘というのである。)

 

故に知んぬ、南無妙法蓮華経は、一心の方便なり。妙法蓮華経は、九識なり。十界は、八識已下なり。心を留めてこれを案ずべし。「方」とは即ち十方、十方は即ち十界なり。「便」とは、不思議ということなり云々。

(南無妙法蓮華経は一心の方便なのである。妙法蓮華経は九識であり本体である。十界は妙法の働きであり、八識以下となるのである。このことをよくよく心に留めて思索していきなさい。「方」とは即ち十方のことで、全宇宙をあらわし、全宇宙の実相は十界とあらわれる。「便」とは不思議ということである。)

【この一心とは一念三千の一念であり、単に精神的な心という意味とは違う。「この方便とは十界三千なり」(御義口伝794頁)とあるように三千である。つまり「南無妙法蓮華経は一念三千」ということなのである。妙法蓮華経は九識であるとは妙法が宇宙の本源であり、生命の究極ということである。十界は八識巳下とは本体に対する働きであり、生命の究極である一念のあらわれである。現実にあらわれた仏の所作は八識巳下になってくるのである。】←講義から

 

<感想>

難しかったですが、講義を読んでみて、ちょっとすっきりしました。その感想を書きます。

信心しているものは、していない人となんら変わりがないように見えて、長年純真に信心をしていけば、知らず知らずのうちに妙法のリズムにかなった生活をして、大いに福運を積んで、境涯も広く高くなっているのです。自分の生命に仏界を湧現して生活している。それが妙法の体内の方便だというのですね。

凡夫即極、凡夫即仏、ありのままの姿で、それが即仏なんですね。釈迦みたいでなくても、大聖人みたいでなくても、ありのままの自分の姿で仏の生命を働かせることができる。瞬間瞬間の生命活動が楽しくて楽しくてたまらないという境涯、これを仏と一往定義づけられる。自分も仏なんだと分かった時の驚きと喜び、歓喜の中の大歓喜と言われるほどの歓喜、大歓喜!道行けば雑草が私に挨拶してるような、大空を見上げればそこに宇宙の中の仏界が自分には見えるような。恋愛してるときの天界の喜びではないのです。いつまで続くんだろって思うくらい仏界の命はずっとありますね。(ここは私の体験でした)

我が生命の中に仏界の命を隠し持ってる、秘し持ってる。仮に謗法の人でも、のちに信心するようになるから秘妙方便なのです。妙法の当体にあらず、という人はおらんのですが、本人が気がつかんだけ。折伏されて御本尊を拝めば絶対でてくるのが仏の生命。

それを信じられなくて信仰しないから、仏の生命はあるのに出しようがないぞ、ってこと。

長年折伏をしてきた友人、昔から海外に行ったり、好き放題やってきて、年取ってからの苦労が半端ないことになってる。お金がいくらあっても生命が満たされないのってやっぱり仏ではないのね。私なんかお金がなくても、何が起こっても、自分は仏やと信じてるので、なかなか凹むことがないですよ。まだまだ死ぬまでに何が起こるかわかりませんけど、きっと大丈夫と思って生きています。

 

秘とはきびしきなり・・・

秘とは自分の一念のことだそうです。

誰にもわからないから秘なのです。奥底の一念がどうであるかが大事。

一念の生命の如何がいっさいを決定する。実に厳しいのです。

私たちは到底未来を知ることはできないが、本当に信心が透徹してきたら未来を決定することはできる、と講義されています。御本尊を信じ、題目を唱えるならば、未来の果は現在の瞬間の生命の中にそなわっており、未来は自由自在となる。

自分の奥底の一念がどうであるか、まことに厳しい信心の世界ではないですか。

秘とは厳しい~!三千羅列だ~!