御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

 譬喩品九箇の大事  第一「譬喩品」の事  新1005頁~1006頁

  譬喩品九箇の大事
第一 「譬喩品」の事
  文句の五に云わく「『譬』とは、比況なり。『喩』とは、暁訓なり○大悲息まず、巧智無辺なれば、さらに樹を動かして風を訓え、扇を挙げて月を喩す」。
  御義口伝に云わく、「大悲」とは、母の子を思う慈悲のごとし。今、日蓮等の慈悲なり。章安云わく「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり」。「巧智」とは、南無妙法蓮華経なり。諸宗無得道の立義なり。「巧於難問答(難問答に巧みなり)」の意なり。「さらに」とは、在世に次いで滅後のことと意得べきなり。「樹を動かす」とは、煩悩なり。「風を訓う」とは、即ち菩提なり。「扇を挙ぐ」とは、生死なり。「月を喩す」とは、即ち涅槃なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、大白牛車に乗って「直至道場(直ちに道場に至る)」するなり。
  記の五に云わく「『樹』と『扇』と、『風』と『月』とは、ただ円の教と理とのみなり」。また云わく「法説の実相は、何ぞ隠れ、何ぞ顕れん。長風息むことなく、空月常に懸かれり」。この釈これを思うべし。「隠る」とは、死なり「顕る」とは、生なり。「長風」とは、我らが息なり。「空月」とは、心月なり。法華の生死とは、三世常恒にして隠・顕これ無し。我らが息風とは、吐くところの言語なり。これ南無妙法蓮華経なり。一心法界の覚月、常住にして懸かれり。これを指して「ただ円の教と理とのみ」と釈せり。「円」とは、法界なり。「教」とは、三千羅列なり。「理」とは、実相の一理なり云々。

 

<感想>

ざっと一回読んだだけでは頭に入りません。よくよくわかろうとして読まないと理解しがたい。下線を引いたところは納得できた。簡単にそうだと思ったら、これが隠・顕これなしと言われる。空月が心月(心月とは一念・生命をさす)であると。

 

「大悲」とは、母の子を思う慈悲のごとし、これはわかる。そして、これが今、日蓮等の慈悲であると。

 

「さらに」とは、在世に次いで滅後のことと意得べきなりと。滅後はすなわち、末法今の時をさしていると。

「樹を動かす」とは、煩悩なり。「風を訓う」とは、即ち菩提なり。「扇を挙ぐ」とは、生死なり。 「月を喩す」とは、即ち涅槃なり。ここ、ここ。ここがすっと簡単には腑に落ちなかったところ。譬えが難しい。譬喩品ですからね、譬喩ばっかりと言っていい。わかりやすく譬喩を使われてるのに、それが理解しにくいこともある。

「樹を動かす」がすっとせやせや煩悩やなとわかる人はえらい。凡人はへ~っと思って2・3秒考えてしまう。ほんでまだなんでやろ、ってなる。「扇を挙げる」のがなんで生死なんか、ますますわからん。講義には総勘文抄562頁の文を引用しておられます。何度か読みましたが、これもまた難しい。

 

「ただ円の教と理とのみ」と釈せり。「円」とは、法界なり。「教」とは、三千羅列なり。「理」とは、実相の一理なり云々。という最後のところ、「教」とは、三千羅列なり。南無妙法蓮華経はきびしき因果の理法を説ききったものであるということで、三千とは生命活動の範疇である。中略(講義327頁)

私が思うには、「円教の理」というのは「宇宙を貫く因果の理法は南無妙法蓮華経」のことであるということです。(講義をまとめるとこうなります)

 

読む人にわからしてあげようなんてことは思いません。私がちゃんとまだわからないので、また、何度も読みたいと思う次第です。