御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 寿量品二十七箇の大事 第一 全752頁 新1048頁 

さて、いよいよ勤行でおなじみの寿量品です~

今日から下巻に入りました。1090頁もある~生きてるうちに全部ブログに書けるのか心配やけど、乗りかかった船というやつです。がんばろって思えば気持ちが前向きになるのは不思議やね。体も元気になるような気がする。個人的な前置きはさておき、本文をどうぞ。

 

 御義口伝巻下 日蓮所立。寿量品より開結二経に至る。

    寿量品二十七箇の大事
第一 「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」の事
  文句の九に云わく「『如来』とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏・迹仏の通号なり。別しては本地三仏の別号なり。『寿量』とは、詮量なり。十方三世の諸仏の功徳を詮量す。故に『寿量品』と云う」。
  御義口伝に云わく、この品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付嘱これなり。
  「如来」とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地の無作の三身なり。今、日蓮等の類いの意は、総じては「如来」とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法法華経の行者なり無作の三身の宝号を、「南無妙法蓮華経」と云うなり。寿量品の事の三大事とは、これなり。


  六即の配立の時は、この品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり。その故は、始めて聞くところの題目なるが故なり。聞き奉って修行するは、観行即なり。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて、惑障を伏するを、相似即と云うなり。化他に出ずるを、分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを、究竟即の仏とは云うなり。
  総じて伏惑をもって(次第に惑障・心の迷いを伏して仏果を得ていくのを)寿量品の極とせず。ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なり云々。

 

<語句>

六即について:

御本尊をいただくまでの人であれば、ただ理論上は仏界があるはずなので、理即とは迷いの凡夫のことです。折伏されて仏法に理解をしめして入会したら名字即。観行即とは勤行して、題目もあげてる人。相似即とは自己における三障四魔と戦いこれを粉砕していく人。分身即は折伏に励み、民衆救済、王仏冥合にまい進する人。究竟即とは、元品の無明を断じた極聖の位をいい、永遠の生命を感得し、成仏の境涯に達した人。

総じては、だれでも仏法を実践していけば究竟即に必ずなれます。別しては日蓮大聖人の事です。

仏法はよく、総じてとか、別して、っていう言い方をします。ここでは日蓮大聖人だけは別口で絶対的に究竟即の仏なのは疑いない。学会員でもなかなかその境涯まで到達するのは大変かもしれないが、総じて理屈では皆なれるってことです。

ところが勤行もしなくて題目もあげなくて、折伏も何にもしない学会員も多いですから、すべて一律に究竟即にはなれてなくて、それぞれ六即のうちのどれかにはあてはまってるのは確かです。

ただ、段階的に上がっていくんじゃなくて、名字即から御本尊に境地冥合する題目をあげていけば一気に究竟即、つまり成仏の境涯、即身成仏は可能だと教えられています。

学会員になって、あるいは入会前であっても、御本尊に題目を唱え出したら自分の命の中の仏の生命がどんどんでてくるのが即身成仏なんだと思います。何か特に折伏したりしなくても宿命転換の闘いをしていなくても、大丈夫です。題目には人を仏の境涯にする力があるのです。仏の境涯になれば、自分が幸せになるだけでなく、ほかの人を幸せにしたいという崇高な仏の使命が出てくるのです。

 

ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり

寿量品の極理だと心得るべきだと言われている。私たちがそのままの姿で仏になれるんだと。すごいことですね。ありがたいことだ。

整形もしなくていいし、ダイエットもしなくていいし、(笑)

今の姿のまま、仏の境涯です。心こそ大切なれ、ですね。

 

 

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