薬草喩品五箇の大事
第一 「薬草喩品」の事
(わかりやすい言葉に変えています)
記の七に云わく「無始の性徳【=無始無終の永遠の生命に本来具わっている仏界の事】は地(大地)のようであり、大乗(法華経)の心を発す(=信ずること)は種のごとし【成仏の本源の因であるがゆえに種という】。二乗(声聞・縁覚)の心を発すは草木の芽や茎のようなものである。今、初住に入るは、仏乗の芽茎等を成ずるようなものである」。
御義口伝に云わく、法華の心(御本尊)を信ずることは種を植えたことである。諸法実相の内証に入れば仏果を成ずるなり(成仏の境涯となる)。「薬」とは、九界の衆生の心法なり。その故は、権教を信ずる心は毒草に譬えられるが、法華(御本尊)に値お会いすれば、三毒の煩悩の心が法報応の三身を具えた果満(仏果円満=成仏の境涯)の種なりと開覚するのを、「薬」というのである。今、日蓮等の類い、妙法の「薬」を煩悩の「草(心)」に受けているのである。煩悩即菩提・生死即涅槃と覚らしむるを、「喩」とは云うなり。釈に云わく「『喩』とは、暁訓(教え諭すこと)なり」。「薬草喩」とは、我ら行者のことなのである。