御書大好き!!

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第六 「如我等無異 如我昔所願」の事  新版1003頁

(方便品八箇の大事より)

第六 「如我等無異 如我昔所願(我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の所願のごとき)」の事


 (天台の)疏に云わく「因を挙げて信を勧む」。(仏の因位を挙げて、信心を勧めるのであると」説いている。)
  御義口伝に云わく、「我」とは釈尊、「我実成仏久遠(我実に成仏してより久遠なり)」の仏なり。この本門の釈尊は、我ら衆生のことなり。「如我」の「我」は、十如是の末の七如是なり。九界の衆生は、始めの三如是(であり、三身如来なのである)なり。我ら衆生は親なり、仏は子なり。父子一体にして、本末究竟等なり。
  この我らを寿量品に無作の三身と説きたるなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱うる者これなり。
  ここをもってこれを思うに、釈尊の総別の二願とは、我ら衆生のために立てたもうところの願なり。この故に、南無妙法蓮華経と唱え奉って、日本国の一切衆生を我成仏せしめんというところの願(いこそが、御本仏日蓮大聖人の「如我昔所願」である。)終に引導して己身と和合するを、「今者已満足(今、已に満足しぬ)」と意得べきなり。この「今者已満足」の「已」の字、「すでに」と読むなり。いずれのところを指して「すでに」とは説いているのであろうか。およそ天台の所釈の心は、釈尊が)「諸法実相」の文を指して「すでに」というとしている。しかしながら、当家(文底下種家)の立義としては、南無妙法蓮華経を指して「今者已満足」と説かれたりと意得べきなり。
  されば、この「如我等無異」の文、肝要なり。「如我昔所願」は本因妙、「如我等無異」は本果妙なり。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄である。釈には「因を挙げて信を勧む」と。「因を挙ぐ」は、即ち本果のことである。今、日蓮が唱うるところの南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏せしめるのである。あに「今者已満足」にあらずや。「已」とは、建長五年四月二十八日に初めて唱え出だすところの題目を指して、「已」と意得べきである。妙法の大良薬をもって一切衆生の無明の大病を治せんこと疑いなきなり。これを思い遣る時んば満足なり。「満足」とは、成仏ということなり。釈に云わく「円は円融円満に名づけ、頓は頓極頓足に名づく」、これを思うべし云々。

 

<講義より>

疏に云わく「因を挙げて信を勧む」

当体義抄文段には「信心は唱題の因、唱題はこれ信心の果なり」とあり、因果俱時を表している。われわれが幸福になろう、一生成仏しようとの願いは、必ず信行によって叶えられるのである。その願望、一念の中に、未来の果は含まれるのである。