御書大好き!!

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御義口伝 寿量品 第十四 全756頁 新1054頁

第十四 「時我及衆僧 俱出霊鷲山(時に我および衆僧は、ともに霊鷲山に出ず)」の事
  御義口伝に云わく、「霊山の一会、儼然としていまだ散らず(霊山一会儼然未散)」の文なり。「時」とは、※感応末法の時なり。

衆生が御本仏の出現を感じ、御本尊もまたこれに応じて出現するという重大な時をさす。

 

「我」とは釈尊(すなわち仏界を意味し)、「及」とは菩薩、聖衆(二乗界=声聞・縁覚)を「衆僧」と説かれたり。「俱」とは、十界なり。霊鷲山」とは、寂光土なり。「時」に「我」も「及」も「衆僧」も、ともに霊鷲山(すなわち寂光土)に出ずるなり。秘すべし、秘すべし。本門事の一念三千の明文なり。御本尊はこの文を顕し出だしたもうなり。

されば、「俱」とは大御本尊に十界の生命が、そっくりそのまま具わっていることであり、これ自体は)不変真如の理なり、「出」とは(信心によって御本尊の十界の生命活動がわれわれに感応してくることであり)随縁真如の智なり。さらに「俱」とは(信心の)一念であり、不変真如となり、「出」とは(信心があって初めて随縁真如の智となり、三千の活動が)三千なり云々。
  また云わく、「時」とは、本時娑婆世界の時(この娑婆世界に御本尊が出現した末法の時)なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり(同じように十界互具一念三千の大御本尊)。その故は、「時」とは、末法第五時の時なり。「我」とは釈尊、「及」は菩薩、「衆僧」は二乗、「俱」とは六道なり。「出」とは、霊山浄土に列出するなり。「霊山」とは、御本尊ならびに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云々。【霊山とは御本尊のことであり、御本尊に十界の生命が列出することを意味するからである。また日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経を唱える、その人の住所が霊山であり、いずこにあれ、仏界に照らされ幸福な生活をしていくことができるのである。】

 

<講義より>

ここのところは日寛上人の依義判文抄によれば、三大秘法の依文なる。

一心欲見仏、不自惜身命・・・・本門の題目

時我及衆僧、俱出・・・・・・本門の本尊

霊鷲山・・・・・・本門の戒壇

 

一心欲見仏とは信心であり、不自惜身命とは唱題修行である。

時我及衆僧、俱出が本尊であることは、この御義口伝で明白である。

霊鷲山は題目を唱える場所であり、戒壇となる。