第十一 「自我得仏来(我は仏を得てより来=このかた)」の事
御義口伝に云わく、一句三身の習いの文と云うなり。
「自」とは、九界なり。「我」とは、仏界なり。この十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり。自も我も得たる仏来れり。十界本有の明文なり。
「自」とは九界、「我」とは仏界なのである。したがって自我で十界を意味し、本有無作三身の仏に本然のものであり、この十界互具の当体として末法に出現した仏のことを、自我得仏来というのである。
「我」は法身、「仏」は報身、「来」は応身なり。この三身、無始無終の古仏にして「自得」なり。
「我」は三世常住に続きゆく仏の生命それ自体であり、法身である。「仏」とは九界より湧現する随縁真如の智であり、報身である。「来」とは刻々と移りゆく色法の活動であり、応身である。
この三身は無始無終の古仏たる久遠元初自受用報身如来に本来具わったものであり、他から与えられたものではなく、自ら体得したものである。
「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」これを思うべし。
しからば則ち「本の遠寿を顕す」の説は永く諸教に絶えたり。
したがって顕本遠寿、すなわち寿量品の文底に説かれた久遠元初の顕本は絶対諸経には説かれていない。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「自我得仏来」の行者なり云々。
<感想>
私たちは元々本来仏だったんだと思い出すというか感じる?悟る?御本尊に題目をあげて生命が感応すると仏の扉が開くんでしょうね、そういうイメージかな?
自分はなかなか仏になられへんなと思ってたけど、ある時命がけで御本尊を守ろうとしたときに、えっていう瞬きするくらい、一瞬で生命が仏になったことがありました。怖いくらい自分が仏なんだけど、いつか凡夫に戻りそうで、いつまで仏の境涯でいられるのか知りたいと思っていたら、
「仏になったら、永遠に仏だよ~!」って本部幹部会で先生が叫んでくださって、うれしかったです。いつか自分が仏でなくなるか不安だったので。
わかってもらえますかね~