第二十二 自我偈始終の事
御義口伝に云わく、「自」とは、始めなり。「速成就仏身(速やかに仏身を成就す)」の「身」とは、終わりなり。始終、自身なり。中の文字は受用(=活動)なり。よって、自我偈は自受用身(日蓮大聖人のこと)である。法界を自身と開き、法界自受用身なれば、自我偈にあらずということなし。
自受用身とは、一念三千なり。伝教云わく「一念三千即自受用身。自受用身とは、尊形を出でたる仏なり」。「尊形を出でたる仏」とは、無作の三身ということなり云々。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者、これなり云々。
<講義より>(長い講義を短く書きます。)(講義下巻 273頁~241頁)
自我偈全体が別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行する者自身の生命をあらわしている。初めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用すなわち活動であり、法報応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
尊形の仏とは、色相荘厳の仏ということで、インド生誕の仏、釈迦を指す。これに対する尊形を超出した凡夫の姿そのままの仏とは、無作三身の末法如来の日蓮大聖人のことである。我々も又無作三身の仏と開覚し、字の一念三千の当体として確固たる自己を築くことが出来るのである。