第十九 「毎自作是念(つねに自らこの念を作す)」の事
御義口伝に云わく、「毎」とは、常の意で三世(常住)をあらわす。
「自」とは、別しては釈尊(仏界)をあらわし、総じては十界(各々の生命)をあらわす。「是念」とは、無作本有の南無妙法蓮華経の一念である(つまり日蓮大聖人の御一念である)。「作」とは、この「作」は有作の作にあらず、無作本有の作であり(大聖人の御振舞それ自体である)。
【以上、仏の一念、振舞いの上で論じたものであるが、】
広く十界本有に約して論ずるならば、「自」とは、宇宙の森羅万象己々の当体をいうのである。「是念」とは、呵責の音(地獄の獄卒が罪人を責めるのも)、その外一切衆生の念々、皆これ自受用報身の智である。これを念というのである。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る念は、大慈悲の念である。
<講義より>一切の人々は常に何かを思って生活している。
仏の毎自作是念は、常にどのようにしたら、衆生をして、無上道を得せしめ、速やかに仏身を成就させようかという、大慈悲の念々なのである。この慈悲の念は意識しておこせるものではない。行動の中に、心の働きの中に無意識に自然に発現するものである。