第二十 「得入無上道(無上道に入ることを得)」等の事
御義口伝に云わく、「無上道」とは、寿量品の無作の三身なり。この外に「成就仏身(仏身を成就す)」これ無し。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「成就仏身」疑いなきなり云々。(成仏することはまちがいないのです。なんとうれしきこと、ありがたや~)
※無上道とは、有上道に対する言葉。そうでしょうけど、有上道はあまり言わないですよね。これ以上の哲学はない。これ以上の幸福境涯はないというのが無上道。
「寿量品の」というのは寿量品の文底に説かれている無作三身だからです。
法に約せば南無妙法蓮華経。人に約せば無作三身こそ無上道です。そしてそれは久遠元初自受用無作三身如来即日蓮大聖人のことであり、その宝号を南無妙法蓮華経というのです。
第二十一 自我偈の事
御義口伝に云わく、「自」とは、九界なり。「我」とは、仏身なり。「偈」とは、ことわる(=道理・法理)という意味であり、妙法の哲理を、これこそ道理なりと述べたことをいうのである。
本有とことわりたる偈頌(げじゅ)なり。(すなわちこの九界即仏界、十界互具の生命は久遠元初以来、無始無終であることを道理として説き明かしたのが、この偈頌なのである。)深くこれを案ずべし。
偈(ことわ)り様とは(道理として説き明かした究極の実体は)南無妙法蓮華経なのである。
※寿量品の文底の読み方で、自我偈の実体は南無妙法蓮華経なのです。文上の自我偈の読み方ではだめなのです。自我偈の帰着すべき根源は御本尊であり南無妙法蓮華経である。これを離れていかに自我偈を読もうと絶対に功徳はない。ということです。
末法においては正行が南無妙法蓮華経であり、自我偈は助行であると言われている通りです。題目がご飯で方便・自我偈はおかずだって入会した時言われましたけどね。