第七 「以譬喩得解(譬喩をもって解することを得ん)」の事
止観の五に云わく「『智者は譬えに因る』。この意、徴(しるし)有り」。
御義口伝に云わく、この文をもって鏡像の円融三諦(空・仮・中の三諦は相即して円融無礙(えんゆうむげ)であり、一つであると説かれた三諦)のことを伝うるのである。総じて、鏡像の譬えとは、自浮自影の鏡(自らの影を浮かべる鏡)のことなり。この鏡とは、一心の鏡なり。総じて、鏡について重々の相伝これ有り。
詮ずるところ(つまるところ)、鏡の能徳(能力・徳性)とは、万像を浮かぶるを本とせり(=あらゆるものの姿をすべて浮かべるところにあるのである)。妙法蓮華経の五字は、万像を浮かべて一法も残る物これ無し。(=妙法蓮華経の五字はあらゆるものの姿をすべて浮かべて、一つの現象をも浮かべ残すということはないのである)
また云わく、鏡において五鏡これ有り。妙の鏡には法界の不思議を浮かべ、法の鏡には法界の体を浮かべ、蓮の鏡には法界の果を浮かべ、華の鏡には法界の因を浮かべ、経の鏡には万法の言語を浮かべたり。
また云わく、妙の鏡には華厳を浮かべ、法の鏡には阿含を浮かべ、蓮の鏡には方等を浮かべ、華の鏡には般若を浮かべ、経の鏡には法華を浮かぶるなり。
順逆次第して意得べきなり。➡【妙法蓮華経は華厳、阿含、方等、般若のいずれにも説かれず、法華経にきて、初めて説かれるのである。これは説法の順序に従って相対的に判じていった立場であるが、逆に絶対妙の立場から八万法蔵を判じていったとき、華厳も阿含も方等も般若もことごとく妙法蓮華経の一法に収まるのである。このように順逆次第して八万法蔵を判じていかなければならない。】
我ら衆生の五体・五輪、(すなわちこの身体が妙法蓮華経の当体であり、このわれら衆生の生命を映し出す鏡こそ、宝塔品において釈尊が己心に描いた、そして大聖人がその儀式を借りて事実の上にあらわされた、御本尊なのである)妙法蓮華経と浮かび出でたるあいだ、宝塔品をもって鏡と習うなり。信・謗の浮かび様、能く能くこれを案ずべし。自浮自影の鏡とは、南無妙法蓮華経の御本尊であると心うべきである。
<講義より>
経の鏡には万法の言語を浮かべたり
信心ある人の発言は、実にはっきりしてくる。言々句々というものはその人の一心の発露であり、貪瞋痴の生命に支配された人の発言は、どんなに飾ろうとそこに嫌味がある。信心なき人の言々句々は、そこに慈悲もなく、信念もなく、強い生命力の響きも感じない。また御本尊を護持していても、信心がスッキリしないと、自分の発言がなんとなく確信がなく、響きがなく、リズムに合わないのである。
自分の行動も信心しておればリズムに合致し、はつらつとしてくる。逆に信心から遠ざかった場合には、何をやってもうまくいかないし、また、何となく空虚になっていく。これは経の鏡に自分のいっさいの言語、行動を浮かべていることである。(388頁)
(ここのところが私にはぐっと響いたので抜粋しました。)