御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

法華初心成仏抄 その1  全544頁  新685頁

長い御書ですが・・・新版御書で20頁ほどありますね~

7頁ずつくらいに区切って3回で載せても、一回が長い!

頑張って、わかりやすく語訳(通解など)を入れていきますね。

 

(048)

法華初心成仏抄

 建治3年(ʼ77) 56歳

 

今回も問答形式のお手紙になってます。

お手紙を頂かれたのは駿河国岡宮に住む妙法尼ではないかと言われています。13の問答によって、宗教の正邪や、南無妙法蓮華経末法弘通の大法であることを論じ、さらに末法の初心の義など、根本問題ご明かされています。

 

 

問うて云わく、八宗・九宗・十宗の中に、いずれか釈迦仏の立て給える宗なるや。

 答えて云わく、法華宗は釈迦の立てたもうところの宗なり。その故は、「已説・今説・当説の中には法華経第一なり」と説き給う。これ釈迦仏の立て給うところの御語なり。故に、法華経をば仏立宗と云い、または法華宗と云う。また天台宗とも云うなり。故に、伝教大師、釈して云わく「天台の釈するところの法華の宗は、釈迦世尊の立てたもうところの宗なり」と云えり。法華より外の経には、全く「已今当」の文なきなり。「已説」とは法華より已前の四十余年の諸経を云う。「今説」とは無量義経を云う。「当説」とは涅槃経を云う。この三説の外に法華経ばかり成仏する宗なりと仏定め給えり。余宗は仏涅槃し給いて後、あるいは菩薩、あるいは人師たちの建立する宗なり。


 仏の御定を背いて菩薩・人師の立てたる宗を用いるべきか、菩薩・人師の語を背いて仏の立て給える宗を用いるべきか、また、いずれをも思い思いに我が心に任せて志あらん経法を持つべきかと思うところに、仏これを兼ねて知ろしめして、末法濁悪の世に真実の道心あらん人々の持つべき経を定め給えり。経に云わく「法に依って人に依らざれ。義に依って語に依らざれ。智に依って識に依らざれ。了義経に依って不了義経に依らざれ」文。この文の心は、菩薩・人師の言には依るべからず、仏の御定を用いよ。華厳・阿含・方等・般若経等の真言禅宗・念仏等の法には依らざれ、了義経を持つべし。了義経と云うは法華経を持つべしという文なり。(686)

 問うて云わく、今、日本国を見るに、当時、五濁の障(さわ)り重く、闘諍堅固にして瞋恚の心猛く、嫉妬の思い甚だし。かかる国、かかる時には、いずれの経をか弘むべきや。


 答えて云わく、法華経を弘むべき国なり。その故は、法華経に云わく「閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」等云々。瑜伽論(ゆがろん)には「丑寅の隅(すみ)に大乗・妙法蓮華経の流布すべき小国あり」とあり、安然和尚はそれを「我が日本国なり」等といっている。天竺(インド)よりは丑寅(北東)の角(すみ)に、この日本国は当たるのである。

また恵心僧都、一乗要決には「日本一州、円機純一であって、朝野(朝廷も民間も=官民)・遠きも近きも同じく一乗に帰し、緇素(しそ=僧も俗も=僧俗)・貴賤(きせん)ことごとく成仏を期すべきである」云々。

この文の心は、日本国は、京・鎌倉・筑紫・鎮西(ちんぜい)・みちおく(陸奥)、遠きも近きも法華一乗の機のみ有って、上も下も、貴きも賤しきも、持戒も破戒も、男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりという文なり。譬えば、崑崙山に石なく、蓬萊山に毒なきがごとく、日本国は純(もっぱ)らに法華経の国なり。


 しかるに(ところが)、「法華経は元来、尊い御経であるから、誰が信じないでいようか」と語(ことば)にはいいながら、しかも昼夜朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬は珍重すべきものとほめながら、朝夕毒を服する者と同じである。あるいは「念仏も法華経も同じである」という人は、石も玉も、上﨟も下﨟も、毒も薬も一なり(同じである)というものと同じである。
 その上、法華経を怨(あだ)み、嫉(ねた)み、悪(にく)み、毀(そし)り、軽しめ、賤(いや)しむ族(やから)だけが多い。経に云わく=(法華経安楽行品第十四に)「一切世間に怨多くして信じ難し」。また云わく(法華経法師品第十に)「如来の現在すらなお怨嫉多し。いわんや滅度の後をや」の経文は少しも違わず当たっている。そこで、伝教大師、(法華秀句に)釈していうには「代を語れば則ち像の終わり末の初め、地を尋ねれば唐の東・羯(かつ)の西、人を原(たず)ねれば則ち五濁の生・闘諍の時である。経に云わく『なお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや』。この言(ことば)、良(まこと)に以(ゆえ=理由があること)である」と。


 これらの文釈をもって知るべし、日本国に法華経より外の真言・禅・律宗念仏宗等の経教、山々寺々、朝野(ちょうや)・遠近に弘まるといえども、正しく国に相応して仏の御本意に相叶い、生死を離るべき法(生死の苦を解決できる法)ではないのである。


(全545頁) 問うて云わく、華厳宗には五教を立てて、「余の一切の経は劣れり。華厳経は勝る」と云い、真言宗には十住心を立てて、「余の一切経顕教なれば劣るなり。真言宗密教なれば勝れたり」と云う。

禅宗には余の一切経をば教内(きょうない)と簡(きら)って、「教外に別伝し、文字を立てず」と立てて、「壁に向かって悟れば、禅宗独り勝れたり」と云う。浄土宗には正(しょう)・雑(ぞう)二行(ぎょう)を立てて、法華経等の一切経をば、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)し雑行と簡い、浄土の三部経を、機に叶いめでたき正行なりと云う。各々我慢を立て、互いに偏執を作す。いずれか釈迦仏の御本意なるや。


 答えて云わく、宗々各別に「我が経こそすぐれたれ。余経は劣れり」と云って、「我が宗吉(よ)し」と云うことは、ただこれ人師の言にて仏説にあらず。ただし、法華経ばかりこそ、仏、五味の譬えを説いて五時の教えに当てて、この経の勝れたる由を説き、あるいはまた「已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なし」と云うことは、正しき仏の金言である。どころが、「我が経は法華経に勝れたり。我が宗は法華宗に勝れたり」という人は、下﨟が上﨟を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云わんがごとし。何ぞ大罪に行われざらんや。法華経より余経を下すことは、人師の言にあらず、経文分明なり。譬えば、国王の万人に勝れたりと名乗り、侍の凡下を下﨟と云わんに、何の禍かあるべきや。この経は、これ仏の御本意なり。天台・妙楽の正意なり。


(全545頁5行目)問うて云わく、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば、説法も種々説かれたのである。いずれも皆得道なるを本意とした。だから、我が有縁の経は人のためには無縁であるとしたり、人の有縁の経は我がためには無縁であるといいだして、そのため、余経の念仏によって得道する者のためには、観経等がありがたい経であって、法華経等は無用である。法華経によって成仏得道なるべき者のためには、余経は無用である。法華経がありがたい経である。

 

「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と説いたり、「種々の道を示すといえども、それ実には仏乗のためなり」と言ったり、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」と説かれているのは、法華経によって得道すべき機根の人々のためのことであるという考えを、世こぞって「すばらしい、もっともな道理である」などと思っている。

いかが心得るべきであろうか。もしそうであれば、大乗・小乗の差別もなく、権教・実教の異なりもなくなって、いずれが仏の本意であり、いずれが成仏の法と説かれたのかわからなくなる。はなはだ、いぶかし、いぶかし。(はなはだ不審である)


 答えて云わく、およそ仏の出世は、始めより妙法を説かんと思しめししかども、衆生の機縁万差にして、ととのっていないため、三七日(21日)の間思惟し、四十余年のほどこしらえおおせて、最後にこの妙法を説き給う。

故に、「もしただ仏乗を讃めるのみであるならば、衆生は苦に没し、この法を信ずることができない。法を破って信じない故に、三悪道に墜ちてしまうであろう」と説き、「世尊は法久しく時がたった後に、かならず当に真実を説かれるであろう」と説かれている。

この文の意は、始めよりこの仏乗を説かんと思しめししかども、仏法の気分(機根)もなき衆生は信ぜずして定めて謗(そし)るであろうから、機を一様に整えるために、初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間説き、最後に法華経を説かれた時、四十余年の説法の座に連なってきた身子・目連等の万二千の声聞、文殊弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王(転輪王)等、梵王・帝釈等の無量の天人、各爾前に聞きしところの法では「如来の無量の知見を得ることができなかった」と言った。

法華経を聞いて「無上の宝聚を求めていないのに自ずから得た」と悦ばれた。それゆえ、「我らは昔よりこのかた、しばしば世尊の説をお聞きしてきたが、いまだかつてこのような深妙の上法を聞いたことがない」とも、「仏は希有の法を説かれた。昔よりいまだかつて聞いたことがない」とも説かれたのである。

これらの文の心は、「四十余年のほど、そこばくの説法を聴聞せしかども、法華経のようなる法をばすべてきかず、また仏も終に説かせ給わず」と法華経を讃めたる文なり。四十二年の聴きと今経の聴きとをば、わけたくらぶべからず。
 しかるに、今経を、それ法華経得道の人のためにして爾前得道の者のためには無用なりと云うこと、大いなる誤りなり。おのずから四十二年の経の内には、一機一縁のためにしつらうところの方便なれば、たとい有縁・無縁の沙汰はありとも、法華経は、爾前の経々の座にして得益しつる機どもを押しふさねて一純に調えて説き給いしあいだ、有縁・無縁の沙汰あるべからざるなり。悲しいかな、大小・権実みだりがわしく、仏の本懐を失って、爾前得道の者のためには法華経無用なりと云えることを。能く能く慎むべし、恐るべし。古の徳一大師と云いし人、この義を人にも教え我が心にも存して、さて法華経を読み給いしを、伝教大師この人を破し給う言に、「法華経を讃むといえども、還って法華の心を死す」と責め給いしかば、徳一大師は舌八つにさけて失せ給いき。


 問うて云わく、天台の釈の中に「菩薩、処々に入ることを得」と云う文は、法華経はただ二乗のためにして菩薩のためならず、菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり。もししからば、「いまだ真実を顕さず」も、「正直に方便を捨つ」等も、総じて法華経八巻の内、皆もって二乗のためにして、菩薩は一人も有るまじきと意うべきか、いかん。


 答えて云わく、法華経はただ二乗のためにして菩薩のためならずということは、天台より已前、唐土に南三北七と申して十人の学匠の義なり。天台はその義を破し失って、今は弘まらず。もし菩薩なしと云わば、「菩薩はこの法を聞いて、疑網は皆すでに除こりぬ」と云える、あにこれ菩薩の得益なしと云わんや。それになお「鈍根の菩薩は二乗とつれて得益あれども、利根の菩薩は爾前の経にて得益す」と云わば、「利根・鈍根に、等しく法雨を雨らす」と説き、「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆この経に属せり」と説くはいかに。


 これらの文の心は、利根にてもあれ鈍根にてもあれ、持戒にてもあれ破戒にてもあれ、貴くもあれ賤しくもあれ、一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道なるべしという文なるをや。また、法華得益の菩薩は皆鈍根なりと云わば、普賢・文殊弥勒・薬王等の八万の菩薩をば鈍根なりと云うべきか。その外に爾前の経にて得道する利根の菩薩というは、いかようなる菩薩ぞや。
 そもそも、爾前に菩薩の得道と云うは、法華経のごとき得道にて候か。それならば法華経の得道にて爾前の得分にあらず。また法華経より外の得道ならば、已今当の中にはいずれぞや。いかさまにも、法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず。故に、無量義経には「この故に衆生は得道差別す」と云い、また「終に無上菩提を成ずることを得ず」と云えり。文の心は、爾前の経々には得道の差別を説くといえども、終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給いて候え。(548頁8行目)


 問うて云わく、当時は釈尊入滅の後、今に二千二百三十余年なり。一切経の中に、いずれの経か時に相応して弘まり、利生も有るべきや。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり。その第五の五百歳をば、「闘諍堅固、白法隠没」と云って、人の心たけく腹あしく貪欲・瞋恚強盛なれば、軍・合戦のみ盛んにして、仏法の中に先々弘まりしところの真言禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給えり。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳を見るに、成仏の道こそ未顕真実なれ。世間の事法は仏の御言一分も違わず。これをもってこれを思うに、当時の「闘諍堅固、白法隠没」の金言も違うことあらじ。もししからば、末法にはいずれの法も得益あるべからず、いずれの仏菩薩も利生あるべからずと見えたり、いかん。さて、もだしていずれの仏菩薩にもつかえ奉らず、いずれの法をも行ぜず、憑(たの)む方なくして候べきか。後世をばいかんが思い定め候べきや。


 答えて云わく、末法当時は、久遠実成の釈迦仏・上行菩薩無辺行菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字ばかりこの国に弘まって、利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。その故は、経文明白なり。道心堅固にして志あらん人は、委しくこれを尋ね聞くべきなり。


 浄土宗の人々、「末法万年に余経ことごとく滅し、弥陀の一教のみあり」と云い、また「当今末法はこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有って通入すべき路なり」と云って、虚言して「大集経に云わく」と引けども、彼の経にすべてこの文はない。その上、ありそうな様子もない。

仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には、ただ浄土の一門のみ入るべき道なりとは、説き給うべからざる道理顕然なり。本経には「当来の世、経道滅尽せん。特りこの経のみを留めて、止住せんこと百歳ならん」と説いている。末法一万年の百歳とは全く見えない。ところが、平等覚経、大阿弥陀経を見るに、仏の滅後一千年の後の百歳とこそ心得なさい。しかるに、善導が惑える釈をばもっとも道理と人皆思っている。これはこれ僻案の者である。(新版692頁)