御書大好き!!

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災難対治抄 ⑩ 全84頁  新457頁

第十四章 謗法者の難にわない理由

<本文>

疑っていう。もしそうなら、どうして、選択集を信ずる謗法の者の中に、この難にあわない者がいるのか。
 答えていう。業力(宿業がもたらす果報)は一定ではない。
 順現業は、法華経に「この人は現世に白癩の病を得るあろう。乃至、諸の悪く重い病にかかるだろう」。仁王経には、「人が仏教を壊れば、孝行な子はいなくなり、六親(六種の親族)は仲が悪く、天神も助けない。疾疫や悪鬼によって、日々悩まされ、異常な災難が絶えることなく、災禍が連続して起こるであろう」と説かれている。

涅槃経には「もしこの経典を信じない者がいるならば○もしは臨終の時に、世の中は荒れて乱れ、戦乱が競い起こり、帝王の暴虐や、怨敵との仲たがいによって侵されるであろう」と説かれている。
 順次生業は、法華経譬喩品第三に「もし人信じないで、この経を毀謗すれば○その人は命終えてのち、阿鼻獄に入るであろう」。仁王経には「人、仏教を破壊すれば○死んでのち地獄・餓鬼・畜生界に入るであろう」と説かれている。
 順後業等はこれを省略する。

 

<講義と感想>

謗法の罪を犯した果報として、現世でつくった業がすぐ果報となって現れる場合は、大したことないんです。今世で犯した謗法の罪が大きいほど、今世では受けきれないので、来世で報いを受けることになる。(=「順次生業」)

現世に果報があらわれるのは「順現業」のことですね。

最後の「順後業」は現世で造った業が次の次の生に果報となって現れるような業です。それはここでは略すと書かれている。

開目抄では、末法法華経の行者である大聖人を迫害する者に現罰がないのはなぜか、という問いを設けられ、それについて三つの理由を挙げられている。

第一に、迫害されている正法の行者に前生の罪がない場合は、迫害する者にすぐ罰が出るが、行者が前世に罪がある場合は、迫害する者に直ちには罰が出ない。

第二に順次生に地獄に堕ちると確定している者には現罰がない。

第三に、諸天善神が国を捨てるゆえに現罰がない。

この第二については「上品の一闡提人(不信の者)になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆえに現罰なし」と仰せである。すなわち、法華不信の者は仏種を断じているゆえに、順次生に無間地獄に堕ちることが決定しているから、現世では罰がでないということだ。現世に罰が出ないということは、逆に、その者の犯した罪が大きいことのあらわれである、ということになる。

 

なるほど!ですね。たとえば日顕が当時すぐ死んで地獄に堕ちたらええのにって皆で祈ったのに、なかなか死なんかったというのは、この原理があったからですね。