御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

最蓮房御返事 ② 全1341頁 新1781頁

第四章 経証ならびに邪師の名を挙げる

<本文>

 結局、その邪悪の師とは、今の世の法華誹謗の法師である。涅槃経には「菩薩は、悪象等に対しては心に恐れることはない。悪智識においては怖畏の心を生じなさい。悪象に殺されても三趣(地獄・餓鬼・畜生)に至ることはない、悪友に殺されたら必ず三趣に至る」。法華経に云わく「悪世の中の比丘は、邪智にして心がひねくれている」等云々。

前々から言ってきたように、善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然・東寺の弘法・園城寺の智証・山門の慈覚・関東の良観等の諸師は、今経(法華経)の「正直に方便を捨てて」の金言を読むのに、「正直に実教を捨てて、ただ方便の教えのみを説く」と読み、あるいは「諸経の中において最もその上に在り」の経文をば「諸経の中において最もその下に在り」と、あるいは「法華最第一」の経文をば「法華最第二・第三」等と読む。故に、これらの法師たちを邪悪の師というのである。

 

 

第五章 大聖人こそ末法正善の師と明かす

<本文>
 さて、正善の師というのは、釈尊の金言のとおり「諸経は方便、法華は真実」と正直に読むことをいうのである。華厳の七十七の入法界品を見るべきである。法華経には「善知識とは、これ大因縁である。いわゆる、化導して、仏を見て、無上の悟りを求める心を起こさせる。」とある。

仏説によれば、正直に四味三教・小乗・権大乗の方便の諸経、念仏・真言・禅・律等の諸宗ならびに依るところの経を捨てて、ただ「唯以一大事因縁(ただ一大事の因縁をもって)」の妙法蓮華経を説く師を正師・善師というべきである。
 ところが、日蓮末法の初めの五百年に、生を日本に受け、如来の予言のごとく三類の強敵に迫害を受け、種々の災難にあって、身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師か邪師か、よくよくお考えいただきたい。

 

第六章 法華経身読の事実を挙げる

<本文>
 上に挙げた諸宗の人々は、「我こそ法華経の意を得て、法華経を修行する者よ」と名乗っているけれども、私のような難にはあっていない。即ち、私、日蓮は弘長に伊豆国に流され、文永には佐渡島に流され、あるいは竜の口の頸の座等、この外種々の難、数えきれないほどである。

経文の通りならば、予日蓮は正師であり善師である。諸宗の学者はことごとく邪師であり、悪師であるとお考えなさい。

この外、善悪二師を分別する経論の文等多くあるけれども、あらかじめ御存知であるので、申し上げるまでもない。

 

第七章 師弟の因縁を述べ、行化を励ます

<本文>
 只今のお手紙に、「今後は日ごろの邪師を捨てて、ひとえに正師として帰依していく」との仰せは、いぶかしく思われる。我らの本師である釈迦如来が、法華経を説くために出世されたときには、他方の仏菩薩等が来臨し、釈尊の振舞いや化導を助けられた。そうであるなら、釈迦・多宝・十方の諸仏等の御使いとして来て、化導を日本に示されることもあろう。法華経に「我は余国において、化人(仏・菩薩が人として化作し人を救う)を遣わして、それがために聴法の衆を集め、また化を遣わして○随順して逆らわじ」とある。この経文に「比丘」と申すは、貴辺(あなた)のことである。その故は、「法を聞いて信受し、随順して逆らわじ」、というのは眼前に明らかである。どうして、これを疑うことができようか。

たとえ、また「在々諸仏土、常与師俱生(いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず)」という人であっても、三周の声聞のように、下種の後に退大取小(大乗を退転し、小乗に堕ちること)して五道六道に深く沈んできたのが、成仏のときが来て、順次に得脱されるゆえであろうか、念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて、日蓮の弟子となられたのであろう。ありがたいことである。

 いずれにしても、日蓮と同じように諸宗の謗法を責め、彼らに邪を捨てて正法に帰依させ、順次に、三が座を並べられている常寂光土に詣でて、釈迦・多宝の御宝前において、我ら無始より以来、師弟の契約があったのでしょうか、なかったのでしょうか。また釈尊の御使いとして来て化導してくださったのでしょうか」と尋ねたときに、「そうだ」と仰せを受けてこそ、我が心も納得されることであろう。なんとしても、励んでいきなさい、励んでいきなさい。