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三世諸仏総勘文教相廃立 ⑧ 全563頁 新711頁

第十章 仏の内証の悟りの相を明かす

<本文>

この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体となったところをいうのであり、三身即一身の境界をさすのである。四土は不二であって法身の一仏の身に納まるのである。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり、身土不二である。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、この故に無相の極理というのである。生滅無常の相を離れているゆえに無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理というのである。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性の中にあって清浄で、煩悩を離れた境界である。これを名づけて「妙法の心蓮台」とはいうのである。これ故に、心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。

生と死と二つの理は、生死の夢の理であり、妄想であり、顚倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって我が心性をただしてみれば、生ずるという始めがないので、死ぬという終わりもないので、既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし、水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓矢にも射られない。芥子(けし=芥子粒・種)の中に入れても、芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空(大空)の中に満たしても、虚空が広すぎることはないし、心法が狭いということもない。

 善に背くのを悪といい、悪に背くのを善という。故に、心の外に善はなく悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである。善・悪・無記、この外には心はなく、心の外には法はないのである。

これ故に、善悪も、浄穢(じょうえ)も、凡夫・聖人も、天地も、大小も、東西南北・四維・上下も、すべての言語道断し(=この境地は言葉では表せず)、心行所滅す(=凡夫の思惟も及ばない)。心で分別した思いを言い表すのが言語であるから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは、心の思いを響かせて声に表したものをいうのである。

凡夫は自身の心に迷って、それを知らず覚らないのである。仏はこの心の働きをあらわして、神通と名づけたのである。神通とは、神(たましい)が一切の法に通じて礙(さわ)りがないことをいうのである。この自在の神通は、一切の有情の心に具わっている。故に、狐や狸がそれぞれに通力をあらわすことは、皆、心の神(たましい)を分々に悟っているからである。

この心という一法から国土世間も出てくるのである。一代聖教とは、この事を説いたのであり、これを八万四千の法蔵というのである。これは皆ことごとく釈尊一人の身中の法門である。したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記文書なのである。この八万法蔵を我が心の中にはらみ、懐き持っているのである。それなのに我が身中の心で、仏と法と浄土とを、我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのである。この心が、善悪の縁にあって善悪の法をつくり出だしているのである。

 華厳経に云わく「心は工みなる画師が種々の五陰を描き表すように、一切世間の中での法は、すべて心が作り出したものである。この心のように仏もまたおなじであり、仏のように衆生もまた同じである。三界は、ただ一心からあらわれたものであり、心の外には別の法はないのである。心と仏と衆生、この三つに差別はないのである」と述べている。

無量義経には「相無く・相ならざる(無相・不相の)一法より無量義を出生したのである」と述べている。「相無く相ならざる一法」とは、一切衆生の一念の心のことである。文句に釈して「生じ滅するという無常の相がないことを、『相無し(無相)』という。二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離れているが故に、『相ならず(不相)』というのである」と述べている。心の不思議を説き明かすことを経論の肝要といい、この心を悟り知った人を名づけて如来というのである。

これを悟り知って後は、十界は我が身であり、我が心であり、我が形である。本覚の如来は我が身心であるが故である。これを知らない時を名づけて無明というのである。無明は「明らかなることなし」と読む。我が心のありさまを明らかに覚らないことである。これを悟り知る時を名づけて法性という。故に、無明と法性とは一心の異名である。すなわち無明と法性という名称や言葉は二つであるけれども、心はただ一つの心なのである。

故に、無明をば断じてはならないのである。無明である夢の心を断じてしまえば、寤の心をも失ってしまうからである。総じて円教の意は一毫(いちごう=ほんの少し)の惑(わく=煩悩)をも断じないのである。故に、「一切の法は皆これ仏法である」というのである。

 

<講義>

さて、ここでは前章に「無相の極理とは・・・・うつつの我が身の心性の寂光の極楽なり」と言われた、その「極楽」とはいかなる境界であるかを示されている。その内容を一言で言えば、我が身が一念三千の当体と覚知した境界といえよう。

「十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合」とは、次の「十界を身と為すは法身なり」等の仰せに照らし、十方という空間的広がりとともに、十界という生命境界の多様性をも包含していわれたと拝される。宇宙の空間的広大さと生命の十界的多様性をことごとく己身に収めた境地が一念三千の仏であり、宇宙即我、我即宇宙となる。これが依正不二であり、この生命を依報に即して表現したのが「我が身の心性の寂光の極楽」なのである。

ゆえに、浄土宗などで説く西方十万億土の極楽浄土などとは全く異なることを知らなければならない。

なお、「三身即一」に関して「十界を身と為すは法身なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり」と言われている。「身」とは肉体の意味ではなく、生命の主質(根本的な本質・性質)をさしている。「心」とは精神的側面であり、肉体的側面については「形」といわれるのがそれである。

また、この仏の内証の悟りは生滅無常の相を離れているゆえに「無相」であり、「法性の淵底・玄宗の極地(一切諸法が拠り所とする根本の真理)」であるゆえに「極理」であると説かれている。

そして、この生命の真実の姿を悟ることを「一切の法は皆是れ仏法なりと通達解了す」というのであり、そこに真実の成仏があることを教えられている。無相の極理の境地は善悪を離れており、すべての相対観念を離れ超えているのであり、所詮、この境地は言葉では表せず(言語道断)、凡夫の思惟も及ばない(心行所滅)ところであるとご教示されている。

以上のように仏の内証である「無相の極理」について様々な角度から説かれたのち、次の文では、仏が「無相の極理」から一切の諸法があらわれてくることを言葉をもって衆生に教えようとしたのが八万四千の法蔵であると言われている。それゆえにこそ一代聖教は「我身一人の日記文書」にほかならないのである。我が身が妙法の当体であることを示そうとしたのが、一代聖教の目的であったのであると述べられ、この心を悟っているのが如来であって、我々凡夫もこれを悟ったならば「十界」を我が身、我が心、我が形とすることができるのであると仰せられている。無明や法性という言葉や名称は別々であるが、その二つを現じている生命は一つであるから、無明を断ずるということは法性をも断ずることになるのであって、無明を断じていこうとしても、所詮、法性の悟りは得られないと諭されている。

次に無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」という文ですが、法華文句の中の釈によると「無相とは生死の相無きなり。不相とは、涅槃の相にあらざるなり。涅槃も亦なし、ゆえに不相無相という。中道を指して実相と為すなり」と。生滅無常の相無きが故に無相というなり、二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相というなり」と。つまり無相というのは「生死の相(姿形)がないことであり、換言すれば「生滅無常の相」がないことである。「不相」というのは、二乗が自らの意思で獲得しようとした涅槃の相(姿形)でもないことをいう、と文句は釈している。したがって「無相不相」とは生滅無常、生死の相を超えるとともに、(無相)二乗の涅槃の相をも超えていること(不相)であり、あくまで「中道」の実相を表現しているというのである。特に不相について文句が釈した「涅槃の相」に関して、無余・有余の二つの涅槃を表し、これを離れることが「不相」であると、より詳しく説かれている。大聖人は以上の経文と釈文とを受けられて「無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり」と説かれて、生滅無常や生死の相を超え、二乗の無余・有余の二つの涅槃を離れた中道の実相の一法とは、一切衆生の心性であり心法である「一念の心」であると結論されている。したがって、無量の義が一法より生ずるということは、衆生の一念の心から無量義が出生するということになって、華厳経の文を裏付けておられるのである。「心の不思議さをもって、経論の詮要を為すなり」とは、衆生・凡夫の心の奥底、究極の「一念」の不思議さを説くことが経論の究極の目的だったのである、ということである。