御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

三世諸仏総勘文教相廃立 ⑦ 全562頁 新711頁

第九章 譬喩で爾前と法華の関係を明かす

<本文> 

一切経(爾前経)の語は夢の中の言葉である」とは、譬えば扇と樹とのようなものである。「法華経の寤(うつつ)の心を顕す言葉」とは、譬えば月と風とのようなものである。

故に、本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照らし、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に、夢の中の言葉の扇と樹とをもって、寤の心の月と風とを知らしめるのである。これによって、夢のなごりを散らして、寤の本心に帰らせるのである。
 故に、摩訶止観には「月が重山に隠れれば、扇を挙げて月にたとえ、風が大空にやんでしまえば、樹を動かして風の動きを教えるようなものである」とある。弘決には「真実の常住の性である仏性の月は、煩悩の山に隠れる。煩悩は一つではない、故に名づけて重山という。

円音教(えんのんぎょう)の風は教化をやめて寂理に帰る。寂滅の法理は妨げるものがなく、ちょうど大空のようである。

四依の菩薩の弘教は扇と樹とのようなもので、これをもって月と風とを知らしめるのである」と。夢の中の煩悩の雲は重なりあって、山のようであり、その数八万四千の塵労であって、心性本覚の月輪を隠す。扇と樹とのごとくなる経論の文字は、言語の教えをもって、月と風とにたとえられる本覚の理を覚知させようとした聖教である。故に、文と語とは扇と樹とにたとえられるのである。」と。
 上の釈は一往の釈であって実義ではない。月のような妙法の心性の月輪と、風のごとくなる我が心の般若の慧解とを教え知らしめるものを、妙法蓮華経と名づけるのである。故に、法華玄義釈籤には「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋(たず)ねて無相の極理に至らしむ」とある。「声色の近名」とは、扇と樹とのごとくなる夢の中の一切の経論の言説である。「無相の極理」とは、月と風とのような寤の我が身の心性の寂光の極楽である。

 

<感想>

いろんな譬えを引いて書いてあるなぁと読んでいくうちに、だんだんわかったようなわからんような、最後のとどめに「無相の極理とは、月と風とのような寤の我が身の心性の寂光の極楽である」ってあって、おや?なんやこれ?って思ってしまいませんか。一発でわかる人はすごい。さて、講義ではどうなってるのか・・・

 

<講義>

一切経がなぜ夢中の言葉をもって説かれたのかを示されている。月を示すのに扇をもってし、風を教えるのに樹をもってするようなものであり、これによって無明の闇を晴らし、妄想の塵をはらわんとされたのであると、述べられている。

 

ここの講義まだ数回しか読めてないのですが、まとめてわかりやすく書くか、そのまま写すか、写すのもまとめるのも大変なので、お預けです。

「無明の極理」については次の章で詳しく説かれているそうなので、明日までお待ちくださいね。