御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

持妙法華問答抄 461頁 

若いころからこの御書は大好きでした。今見ると線引きまくってますね~。難しいこともあって(どの御書もそうですけど)何が書かれてる御書か思い出せるかというとそうではないんですけど、とにかく「持妙法華問答抄が大好きや!」ということしか記憶にない。御書を読み直すと一番最後のところが一番好きなんだっていうのがわかるのですが、(最後のところがやっぱり一番心に残ります。大好きな一節です。⇒)
「寂光の都ならずは何(いず)くも皆苦なるべし本覚の栖(すみか)を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき、南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。」

立正安国論のように問答形式で書かれていますが、詩的だなと思う文章もあって、魅力を感じるんですね~。できればまた、通解と講義も時間のあるときに書こうと思います。

始まりはこうです:まずは現代語訳で:461頁初め~

そもそもまれに人間として生まれ、たまたま仏法を聞くことができた。ところが仏の法に浅深があり、人の機根に高下があるという。どのような法を修行すれば速やかに仏になるのであろうか。願わくは、その道を聞きたいと思う。
答えて言うには、家々に尊勝の親がおり、国々に高貴の君主がいる。皆その君主を尊敬し、その親を崇めると言っても、どうして国王に勝るはずがあろうか。これと同じく大乗と小乗、権教と実教との対立や争いは家々の争いのようなものであるが、釈尊一代の聖教の中では法華経が独り勝れているのである。なぜならこの法華経は速やかに菩提(悟り)を証得する為の指南であり、直ちに菩提の道場に至る即身成仏の車輪だからである。

 御書本文:

抑も希に人身をうけ適ま仏法をきけり、然るに法に浅深あり人に高下ありと云へり何なる法を修行してか速に仏になり候べき願くは其の道を聞かんと思ふ、答えて云く家家に尊勝あり国国に高貴あり皆其の君を貴み其の親を崇むといへども豈国王にまさるべきや、爰に知んぬ大小・権実は家家の諍ひなれども一代聖教の中には法華独り勝れたり

 この御書やっぱり難しいので通解を参考にして、わかりやすく書き直して所々感動したとこを載せたいと思います。

 

463頁13行目~

そればかりではなく「二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕す」と天台は判じている、修羅が大海を渡るのは難しいとするだろうか。幼児が力士を投げることをどうしてたやすいといえようか。そうであるならば即ち仏性の種あるものは仏になるはずだと爾前にも説くけれども、いまだ焦種の者(二乗)が仏になるとは説かれず、このような重病を・たやすく・治すのは独り法華の良薬だけである。ただあなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨ててひとえに一仏乗の法華経に帰依すべきである。名聞名利は今生だけの飾りであり、我慢偏執は後生のほだし(足枷・あしかせ)である。嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。(まことに恥ずべきであり、恐るべきことである)

(次に質問者が面白いことを聞きます):463頁18行~

問うていうには、一を以て万を推察するのであるから・あらあら(ざっと)法華経が他経に勝れるという趣旨聞いて、耳目が初めて明かになった。しかし法華経を・どのように心得てか修行することが速やかに菩提の岸に到るのであろうか。伝え聞くところによると、一念三千の法門の大虚(大空)には慧日(智慧の日の光)が輝いて曇る事がなく、一心三観の広池(広大な池)には智水(智慧の水)が濁る事のない人こそ、その修行に堪えられる機根であるという。ところが南都(奈良の都)の修学に臂を砕くほど励むことがなかったので、瑜伽・唯識(ゆが・ゆいしき)の法門にも暗い。北嶺(比叡山延暦寺)の学文に眼を・さらさなかったから、摩訶止観や法華玄義にも迷うばかりである。天台・法相の両宗については鉢を頭にかぶって壁に向かっているのと同じである。そうかといって、法華経によって得道する機根には既にもれている。どうしたらよいのであろうか。

(到底理解することができないというのを「ほとぎを蒙りて壁に向かうが如し」という言い方が面白いので、クスっと笑いました。大聖人は全部ご存じですけど、質問者はあまり仏法に詳しくないという想定なのですね。あんまり勉強してこなかったことを悔いてますね。法華経で成仏できる機根にももれていると自分でいうなんて、ちょっとかわいいとこある。)

 

答えていうには、利智(智慧がすぐれており)ただひたすら精進して観法の修行をする人のみが法華経の機根であるといって、無智の人を妨げるのは当世の学者の所行である。是れは還つて愚癡邪見の至りである。一切衆生・皆成仏道の教であるから上根・上機の者は観念・観法もよいであろう。ただし、下根下機の者はただ信心が肝要である。

されば経には「浄心に信敬して疑惑を生じない者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちることなく十方の仏前に生ずるであろう」と説かれている。なんとしても法華経を信じて次の世に仏前に生まれることを期すべきなり、

464頁8行目~ 

譬えば高い岸壁の下に人がいて、登ることができないときに、又岸壁の上に人がいて繩をおろして「この繩にとりつけば、私が岸壁の上に引き上げてあげよう」というのに、引く人の力を疑い、繩が弱いのではなかろうかと危ぶんで、手を出さず縄を取らないようなものである。どうして岸壁の上に登る事ができようか。もし、その人の言葉に随って手を差し出し縄をつかめば、即ち登る事ができるのである。

唯我一人・能為救護(ただ我一人がよく衆生を救い護る)の仏の御力を疑い、以信得入(信をもって入ることを得)の法華経の教えの繩を危ぶんで、決定無有疑(決定して疑いのあることがない)の妙法を唱えなければ、仏の力も及ばず菩提の岸に登る事も難しいのである。不信の者は地獄に堕ちる根元である。ゆえに経(法華経従地湧出品第15には「疑を生じて信じない者は則ち当に悪道に堕ちるのである」と説かれている。

 

464頁13行~465頁6行目

受けがたき人身をうけ、あいがたき仏法にあいながらどうして虚しく過ごしていいものか。同じく仏法を信ずるならば、大小・権実とある中に諸仏出世の本意・衆生成仏の直道である法華一乗をこそ信ずべきである。持つところの法華経が諸経に勝れていれば、能く持つ人もまた諸人に勝れるのである。このことを経には、「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於てまた為(これ)第一なり」と説いている。大聖(仏)の金言に疑いはない。ところが世間の人はこの理を知らず、また見もしないで名聞・狐疑・偏執を致せるのは地獄に堕ちるもとである。

 

ただ願うところは、法華経を持ち名を十方の仏陀誓願の海に流し、誉れを三世の菩薩の慈悲の天に施すべきである。そうすれば法華経を持つ人は天竜等の八部衆や諸大菩薩を自分の眷属とする者である。そればかりか因位にある凡身の肉団に果位円満の仏眼を備へ、有為の凡身に無為の聖衣を着たことになるから三途に恐れなく八難に憂いはない。七方便の山の頂に登って九法界の迷いの雲を払い、無垢地の園に花は開き、法性の空に月は明らかとなるであろう。

是人於仏道・決定無有疑の文憑あり唯我一人・能為救護の説疑ひなし、一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり、頓証菩提の教は遙に群典に秀で顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり、爰を以て八歳の竜女は大海より来つて経力を刹那に示し本化の上行は大地より涌出して仏寿を久遠に顕す言語道断の経王・心行所滅の妙法なり、然るに此の理をいるかせにして余経にひとしむるは謗法の至り大罪の至極なり、

465頁16行目~ 

倩ら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是を悪む汝能く能く法の源に迷へり何にと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐候へ、されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむなり、爰に知んぬ当世の人は詞と心と総てあはず孝経を以て其の親を打つが如し豈冥の照覧恥かしからざらんや地獄の苦み恐るべし恐るべし慎むべし慎むべし、上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり、下根に望めても憍慢ならざれ上根も・もるる事あり心をいたさざるが故に凡そ其の里ゆかしけれども道たえ縁なきには通ふ心もをろそかに其の人恋しけれども憑めず契らぬには待つ思もなをざりなるやうに彼の月卿雲閣に勝れたる霊山浄土の行きやすきにも未だゆかず我即是父の柔輭の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず、是れ誠に袂をくだし胸をこがす歎ならざらんや、暮行空の雲の色・有明方の月の光までも心をもよほす思なり、事にふれをりに付けても後世を心にかけ花の春・雪の朝も是を思ひ風さはぎ村雲まよふ夕にも忘るる隙なかれ、出ずる息は入る息をまたず何なる時節ありてか毎自作是念の悲願を忘れ何なる月日ありてか無一不成仏の御経を持たざらん、昨日が今日になり去年の今年となる事も是れ期する処の余命にはあらざるをや、総て過ぎにし方を・かぞへて年の積るをば知るといへども今行末にをいて一日片時も誰か命の数に入るべき、臨終已に今にありとは知りながら我慢偏執・名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は志の程・無下にかひなし、さこそは皆成仏道の御法とは云いながら此の人争でか仏道に・ものうからざるべき、色なき人の袖には・そぞろに月のやどる事かは、又命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり、若し是れ二念三念を期すと云はば平等大慧の本誓・頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず、流布の時は末世・法滅に及び機は五逆・謗法をも納めたり、故に頓証菩提の心におきてられて狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ、生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり、只先世の業因に任せて営むべし世間の無常をさとらん事は眼に遮り耳にみてり、雲とやなり雨とやなりけん昔の人は只名をのみきく、露とや消え煙とや登りけん今の友も又みえず、我れいつまでか三笠の雲と思ふべき春の花の風に随ひ秋の紅葉の時雨に染まる、是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば法華経には「世皆牢固ならざること水沫泡焰の如し」とすすめたり「以何令衆生・得入無上道」の御心のそこ順縁・逆縁の御ことのは已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ又本意に叶はば仏の恩を報ずるなり、悲母深重の経文・心安ければ唯我一人の御苦みもかつかつやすみ給うらん、釈迦一仏の悦び給うのみならず諸仏出世の本懐なれば十方三世の諸仏も悦び給うべし「我即歓喜・諸仏亦然」と説かれたれば仏悦び給うのみならず神も即ち随喜し給うなるべし、

 

ちょっと時間がなくて通解を載せてないですが、(本文も全部ではないですが)

「持妙法華問答抄」はまた読むと思うので、そのときに通解upします。

2年間で御書全編読む予定なので、1つの御書をブログに書くのも大変なのです~。

申し訳ない。

 

持妙法華問答抄という御書をまた読みたいと思って、久しぶりに自分の書いたのを見つけて読みました。「日蓮大聖人の御書を読む」には、対合衆は不明。古来からの伝承で、本抄は六老僧の日時が執筆して、日蓮大聖人が印可されたものとする説がある、と書かれていますが、正本が存在しないので、この説の真偽を確かめることができないそうです。私は大聖人が書かれたものと思って読んできましたし、講義本にも、いまだに決定的な説はないと書かれています。ですので、弘長三年、大聖人が42歳のときに、伊豆流罪赦免直後に鎌倉で書かれたという説に従います。(令和3年11月18日)

 

令和4年1月4日にもこの御書が取り上げられています。1月度座談会御書だそうです。

私の好きな一節(最後のところ)が範囲です。「寂光の都ならずば~~~今生人会の思いでなるべき」

(少し新聞の記事を抜粋して載せておきます。)

大聖人は「我らが居住して一乗を修行せんの処は、いずれの処にても候え、常寂光の都なるべし」と仰せです。仏国土と言ってもどこか遠くに離れた別のところにあるのではありません。

どこまでもこの現実世界にあって、信心根本に自らの生命の仏界を湧現し、環境を切り開いていくことで、自分の今いる場所を、最高の常寂光土と輝かせていくことができる。

これが日蓮仏法の「娑婆即寂光」の法理なのです。