御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

同一鹹味(どういつかんみ)御書 1447頁 新版475頁

夫れ味に六種あり・一には淡(あわき)・二には鹹(しおからき)・三には辛(からき)・四には酸(すき)・五には甘(あまき)・六には苦(にがき)なり、百味の餚膳(きょうぜん)を調(ととの)ふといへども一つの鹹(しお)の味なければ大王の膳とならず、山海の珍物も鹹なければ気味(きみ)なし、大海に八の不思議あり、一には漸漸に[だんだんと]転(うたた)[非常に]深し・二には深くして底を得難し三には同じ一鹹の味なり・四には潮限りを過ぎず・五には種種の宝蔵有り・六には大身の衆生中に在つて居住す・七には死屍を宿めず・八には万流大雨之を収めて不増不減なり、漸漸に転深しとは法華経は凡夫無解より聖人有解に至るまで皆仏道を成ずるに譬うるなり、深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり、同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ、諸河の水・大海に入つて鹹となるは諸教の機類・法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ、潮限りを過ぎずとは妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ、種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ、大身の衆生所居の住処とは仏菩薩・大智慧あるが故に大身衆生と名く大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲・おのづから法華経より生ずるが故なり、死屍を宿めずとは永く謗法一闡提を離るるが故なり、不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり、蔓草漬たる桶缾の中の鹹は大海の鹹に随つて満干ぬ、禁獄を被る法華の持者は桶缾の中の鹹の如く・火宅を出で給へる釈迦如来は大海の鹹の如し、法華の持者を禁むるは釈迦如来を禁むるなり、梵釈・四天も如何(いかが)驚き給わざらん、十羅刹女の頭破七分の誓ひ此の時に非ずんば何の時か果し給ふべき、頻婆娑羅王を禁獄せし阿闍世早く現身に大悪瘡を感得しき、法華の持者を禁獄する人・何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。 日 蓮 花押

新版御書も写しておきますね。こっちが読みやすいです。

夫れ、味に六種あり。一には淡(うす)き、二には鹹(しわはゆ)き、三には辛(から)き、四には酸(す)き、五には甘(あま)き、六には苦(にが)きなり。百味の餚膳(こうぜん)を調(ととの)うといえども、一つの鹹(しお)の味なければ、大王の膳とならず。山海の珍物も、鹹なければ気味なし。
 大海に八つの不思議あり。一には漸々(ぜんぜん)に転(うた)た深し(だんだんと非常に深くなる)。二には深くして底を得難し(深くて底をきわめがたい)。三には同じ一つの鹹(しお)の味なり。四には潮限りを過ぎず(潮の干満には一定の法則がある)。五には種々の宝蔵有り(種々の宝を蔵している)。六には大身の衆生、中に在って居住す(大きな生物が住んでいる)。七には死屍(しし=屍骸)を宿(とど)めず。八には万流(まんる)・大雨、これを収めて不増不減なり。


 「漸々に転た深し」とは、法華経は、凡夫無解より聖人有解に至るまで、皆仏道を成ずるに譬うるなり。「深くして底を得難し」とは、法華経は唯仏与仏の境界にして、等覚已下は極むることなきが故なり。「同じ一つの鹹の味なり」とは、諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬う。諸河の水、大海に入って鹹となるは、諸教の機類、法華経に入って仏道を成ずるに譬う。「潮限りを過ぎず(潮の干満に一定の法族がある)」とは、妙法を持つ人は、むしろ身命を失うことがあっても、不退転の位を得ることに譬えるのである。「種々の宝蔵有り」とは、諸の仏菩薩の万行万善、諸波羅蜜の功徳、妙法に納まっていることに譬えるのである。「大身の衆生の居住するところの処」とは、仏菩薩、大智慧あるが故に、大身の衆生と名づく。大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲、これらはもともと法華経より生じたものだからである。「死屍を宿めず」とは、永遠に謗法・一闡提を離れることを譬えたものである。「不増不減」とは、法華の意は一切衆生の仏性は同一であることを譬えたものである。

 蔓草(つるくさ)漬けたる桶瓶(とうびょう=桶やかめ)の中の鹹は、大海の鹹に随って干満がある。禁獄を被る法華の持者は桶瓶の中の鹹のごとく、火宅を出で給える釈迦如来は大海の鹹のごとし。法華の持者を禁(いまし)むるは、釈迦如来を禁むるなり。梵釈・四天もどれほどか驚かれていることであろう。十羅刹女の「頭七分に破れん」の誓い、この時に果たさなければ、いつ果たすというのであろうか。頻婆娑羅王を禁獄せし阿闍世、たちまちに現身に大悪瘡を生じた。法華の行者を禁獄する人は、どうして現身に悪瘡を生じないことがあろうか。
    日蓮 花押

 
御術作の年月や宛名が不明な御書です。「六味書」とも呼ばれています。
さて、この御書最初のところで味に6種あって塩味(鹹味)が一番大事であると言われています。そして法華経も塩味になぞらえて一番大事な経であること。法華経が説かれなければ、諸経も生きた力になりえないことを教えられています。
最後に、法華経の持者を禁獄することは釈尊を牢屋に入れることと同じであると言われ、頻婆娑羅王を禁獄した阿闍世王のように、現身に大悪瘡を生じることは間違いないと述べられています。