御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

常忍抄 980頁 56歳御作  ( 講義第17巻)

別名を「禀権出界抄(ほんごんしゅっかいしょう)」、「禀権抄(ほんごんしょう)」または「第三法門抄」と言います。身延におられた大聖人から富木常忍に与えられた御手紙です。御書では2頁半くらいの長さです。私の御書には『むつかしい・SKIP』、と欄外に書いてありましたが、今回はちゃんとわかりたくて通解と講義を読みました。

内容の要旨です: 

当時、下総の真間に天台宗の檀林があり、天台僧の了性房と富木常忍との間で法論が行われたとの報告を受けた大聖人が、問答の内容について御指南されたものです。

法論の主題となった禀権出界について教示され、爾前の迹門の小法をもって本門の大法を謗っている諸宗はことごとく邪宗邪義であり、出離生死は不可能であると断破されています。

そして、法華経と爾前の諸経を当分・跨節(かせつ)で相対して、三重に立て分け、「日蓮が法門は第三の法門なり」と述べ、種脱相対の立場から大聖人の法門が末法に弘通される独自の正法であることを明かされています。

さらに了性房の法論の敗北は謗法の科(とが)の顕れであると断じて、末法持戒の者は市の中の虎であると末法無戒を教示されています。また、今後の問答をいましめ、退転状態の大進房に対し、道理を尽くして反省を促すよう教えられています。

 

             以上、「日蓮大聖人の『御書』を読む」から引用

 

   通解:(980頁初め~980頁11行)

お手紙あらあら拝見いたしました。

ご書状によると常忍殿が「法華文句記の第九巻に『権教を受けて※三界を出離する、というのを名付けて虚出(こしゅつ=真実の出離でない)とするのである』とある」と言ったところ、了性房は全くもってその釈はない」と言ったということであるが、法華文句記の第九巻には「法華文句の『無有虚出』から『昔虚為実故(しゃくこいじっこ)』までの文については権教を受けて三界を出離するのを名付けて虚出とするのである。(権教によって)※三乗は皆三界を出ないということはなく、人界天界の者は三途を出るためにならないということはない。これを共に名付けて虚とするのである」とあり、法華文句の第九巻には「虚から出て真実の覚りに入らない者はない。故に昔の虚は真実の覚りに入れる為である事を知るのである」とある。法華経寿量品第十六に「諸の善男子よ、如来は諸の衆生の小法を欲する※徳薄垢重のものを見ては、この人のために『私は若くして出家し、無上の悟りを得たのである』と説くのである。(中略)諸の衆生は種々の性質、種々の欲望、種々の行為、種々の想いが別々であるが故に、諸の善根を生起させようと思って、多くの因縁や譬喩や言葉をもって種々に法を説くのである。そのような仏の振る舞いは未だかつて瞬時も止むことがない」とある。この経文を受けて天台大師や妙楽大師は釈したのである。この経文は釈尊が初めて悟りを開いて最初に説いた華厳経の別円二教から法華経の迹門十四品までを小法といい、(それを欲するものを)徳薄垢重(それによる出離を)虚出等と説いた経文である。もしそうであれば華厳経を所依(しょえ)とする華厳宗、深密経を所依とする法相宗般若経を所依とする三論宗大日経を所依とする真言宗観無量寿経を所依とする浄土宗、楞伽経(りょうがきょう)を所依とする禅宗等の諸経の諸宗は、依経の通りにその経を読誦したとしても三界を出離せず、三途を出られないのである。ましてや、それらの経を真実の教えと称したり、あるいは法華経より勝れている等というにいたってはなおさらである。これらの人々は天に向かって唾を吐き、大地を掴んで怒りをなす者と同じである。

 

 (ここまでが講義第1章の範囲です)

(語句の解説)

三界:生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けた、欲界・色界・無色界のこと。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄会・餓鬼界・修羅界・人界・天界の一部(六欲天)をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうち四空処天をいう。

三乗:声聞・縁覚・菩薩のこと。

徳薄垢重:徳が薄く、煩悩の垢が重いこと。

そのような仏の振る舞いは未だかつて瞬時も止むことがない:御書には未曾暫廃(みぞうざんぱい)とあり、現代文では「いまだかつてしばらくも廃せず」と読む。 仏が衆生を教化して仏道に入らしめるための説法は、いまだかつて瞬時も止むことなく、なされている、という意味。

 

さて、ここでお講義です。(第1章の範囲)

まず、法論の主題となった禀権出界についてご教示され、爾前迹門の小法をもって本門の大法を謗っている当時の諸宗はことごとく邪宗邪義であり、出離生死は不可能であると断定されている。

小法というのは単に小乗教に限らないということです。 諸大乗経も法華経迹門も、久遠実成を説いた寿量品に対すれば小法であり、小乗の法となるということです。 諸宗はこの小法を依経としているのであるから、どんなに教説のごとく修行しても真実の出離を得られるわけがないということです。

(講義が長いので省略して短く説明しました。 ちゃんとわかりたい人は17巻の常忍抄の講義を読んでくださいね。 )

 

第2章の範囲(980頁12行から981頁7行)通解は省きます。御書:

此の法門に於て如来滅後・月氏一千五百余年・付法蔵の二十四人・竜樹・天親等知つて未だ此れを顕さず、漢土一千余年の余人も未だ之を知らず但天台・妙楽等粗之を演ぶ、然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか、伝教大師以て是くの如し、今日蓮粗之を勘うるに法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く「若し三法に於て異の想を修する者は当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処無く所有の禁戒皆具足せず終に声聞・縁覚・菩提の果を証することを得ず」等云云、此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり、経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云、又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり過去に寿量品を聞きし者の事なり等云云、又不信は謗法に非ずと申す事、又云く不信の者地獄に堕ちずとの事、五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」云云。

 

この範囲の講義を要約すると、寿量品已然の諸経の得益は、本来が寿量品の力によるものであり、したがって寿量品を離れれば、作仏・得道という文のみあって実義はなく、有名無実の虚出となる、ということでしょう。

 

第3章の範囲(981頁8行から981頁10行)御書:

総じて御心へ候へ、法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに※当分・跨節の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり。

通解: 総じて心得ておきなさい。法華経と爾前経と相対して勝劣浅深を判別するのに、当分・跨節の立て分けに三つの仕方がある。日蓮の法門は第三の法門である。

世間においては、あらあら夢のように第一、第二については述べているけれども、第三の法門については述べていない。

第三の法門は天台大師や妙楽大師や伝教大師もあらあらこれを説き示しているけれども、いまだ説ききっていない。結局末法の今に譲り与えられたのである。五五百歳というのはこれである。

(語句の解説)

※当分・跨節:当分は当位の分際のことで、そのままの立場のこと。跨節は節を跨(また)ぐことで一歩深い立場のこと。天台宗ではこれを教判として爾前経を当分、法華経を跨節としている。

 

ここは大事だと思います。講義で押さえておきたいと思います。

<講義より>

これまで「寿量品」とのみ呼ばれてきたが、そこに意味されている正像未弘の法とは、文上の寿量品ではない。「第三の法門」と言われるのは寿量文底秘沈・独一本門の深義のことである。

「当分・跨節の事に三つの様有り」の第一は、爾前経は当分であるのに対して、法華経は跨節である。これは権実相対にあたり、日蓮大聖人の第一の法門である。

第二は、法華経迹門は当分で法華経本門は跨節である。これは本迹相対にあたり、第二法門である。

第三は、釈尊の脱益仏法は当分で大聖人の下種仏法は跨節である。これは種脱相対であり、第三法門である。その法体は南無妙法蓮華経である。

         (以上、講義を簡単にまとめました)

第4章(981頁10行から981頁18行)

御書に( )で通解を差し込んだり、現代語に変えたりして、わかりやすいようにして載せますね。

但し此の法門の御論談は余(私)は承らず候(聞いていない)。彼は広学多聞(博学)の者なりはばかり・はばかり(はばかりながら)みた・みたと言って、こちらの負けである、などと決めつけられたならば・いかんがし候べき(どのようにするのか)。ただし彼の法師等が彼(法華文句記)の釈を知らなかったことはさておいたとしても、六十巻の中にないなどというのは天の責めなり。謗法の科(罪)が法華経の御使にあって顕れたのである。又此の論議も定めて(きっと)・わけがあって出来せり(起こったのである)。かじま(賀島)の大田次郎兵衛・大進房・又本院主も、どのように言っているか、よくよくお聞きなさい。此れ等は経文に子細(詳しく)ある事なり。法華経の行者を第六天の魔王が必ず妨げるのである。十境の中の魔事境が此れである。魔の習いは善を妨げて悪を造らしむるをば悦ぶ事にある。どうしても悪をなさない者には、力が及ばずに善をすすめるのである。また二乗の修行をなす者には・ひたすらに怨をなして善をすすめるのである。又菩薩の種修行をなす者には、それを邪魔して二乗の行をすすめる。最後に純円の修行を一向に(いちずに)なす者をば、兼別等(別教を含んだ円教等)の修行に堕とすのである。摩訶止観の第八巻等をご覧になりなさい。

 

<講義の要点>

魔の働きの習性として、人が善事をなそうとすれば妨害し、悪事を行わせるのを喜ぶ。しかし、菩提心をおこして外縁に紛動されない丈夫の心の人には魔の力も及ばないので、善事を許容するが、それでもなお次善に堕とそうとする。なんとしても最高善の成仏を阻もうとするのである。魔の誘惑を魔の所為と見抜いて退ける日頃の用心が肝要であり、わが心の内の弱さと妥協せず、心の中の悪魔のささやきを撃つ戦いを持続しなければならない。不断の唱題、善友との行学の切磋琢磨が何よりも大切なゆえんである。

 

第5章と第6章(982頁1行から最後)

又彼(了性房)が(云く)、「止観の行者は戒を持つ」等と言ったとのことであるが、文句の第九巻には初めと第二、第三の位の行者が戒を持つことについては、此れを制止している。経文にも又分明である。止観に相違している文があるということについては、妙楽が問答の形でこれを述べているので、法華文句記の第九巻を見なさい。初随喜に二種ある。利根の行者は持戒を兼ね合わせ、鈍根の行者は持戒を制止するのである。又正・像・末の時代による違いもあり、摂受・折伏の異なりもある。伝教大師が「(末法において戒を持つ者は)市に虎がいるようなものである」と説いていることを考えあわせるがよい。


 此れより後は下総においては法論すべきではない。了性房や思念房を論詰した上は、他人と法論したならば・かえってて浅くなってしまうであろう。彼の了性房と思念房とは年来・日蓮をそしると聞いている、彼等程の蚊虻(蚊やあぶ=つまらないもののたとえ)の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずして、うはのそらに(いい加減に)・そしる程のをこじんなり(愚か者である)、天台法華宗の者ならば、我は南無妙法蓮華経と唱えて念仏などと称える者のことを「あれはあれでよい」などというだけでも奇怪であるはずなのに、其の義なき上(奇怪だと言わないばかりか)偶(たまたま)念仏の邪義を指摘する人を謗るということは、あらふしぎふしぎ(全くおかしなことである)、大進房が事さきざき・かきつかわして候やうに(前に書き送っておいたように)・つよづよと(きわめて強く)書きたてて言いなさい。大進房には十羅刹がつかれて引きかえすようにされたのだと思われる。又魔王の使者などがついていたのが、はなれていったのだと思われる。悪鬼入其身はよもやうそではあるまい。事事重く候へども(いろいろのことが沢山あるけれども)、此の使いが、急いでいるので、夜に書いた。恐恐謹言。
 十月一日 日 蓮花押

<講義>

終わりにあたって天台の学僧、了性房を法論で破折したうえは、それ以外の者はもはや法論は無用であるとされ、蚊虻に等しい彼等は天台大師の本意すら弁えぬ奇怪な者であると断破されている。また、大進房の信心の進退についてもお心を配られ、重ねて常忍に注意を喚起されている。本文にある思念という人物も天台の学僧であろう。了性房とともに以前から日蓮大聖人を誹謗していたようである。

大進房については一度は大聖人門下をに名を列ねながら、大聖人並びに門下一同を襲った弾圧の嵐に耐えかねて退転した人である。本抄御術作の時点ではわずかでも正信にめざめる兆しがみられたのであろう。しかし、状況の推移によって挙動を変える本質を見抜かれてか、決して心を許すことなく十分諫めるよう、常忍に注意を促されているのである。

 

 

<感想>

 時々こんな難しい御書を学んでどうしようというのだ?と自問してしまう時があり、自答として、来世は絶対賢い人に生まれて人類に貢献できる仕事につくぞ、と、そのために今、人生の終わりかけかもしれないけど、深く教学を学んでおくのだと思ったりしています。今世でも大好きな御書を拝読していると幸せです。日蓮大聖人のご在世当時に自分もいたような気がしたりして、不思議な時の流れを感じています。久遠元初には皆一緒にいたはず。後ろの方で居眠りしていたのは私かも・・・