御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

弥三郎殿御返事 1449頁 56歳御作

この御書は講義とか通解を読まずに本文を読んでいるとどういうことだかよくわからないまま終わりそうな感じですけど、こういう風に言いなさいということを詳しくご教示された御書なので、そう思って読むと腑に落ちますね。

講義は第1章と第2章に分けて書かれている。

第1章:法論の時主張すべき内容を明かす

第2章:法論の在り方と心構えを示す

第1章のが1451頁4行目までで最後のところに「・・・・と承り候と加様のすじに申し給うべし」とあるので「日蓮大聖人にこのように承っています」としかるべき筋に申されるがよい。と大聖人が教えられているのだなということがわかります。

この御書の中で大事な箇所がいくつかあります。まず、前半では:

「このようなことを日本国には日蓮一人ばかりが知った。初めは言い出すべきか否かをあれこれ思いめぐらせたが、いやはやどうすべきだろう。一切衆生の父母である仏に背いてよいものか。わが身はどうなってもいいと思い切り言い出したところ、二十余年所を追われ、弟子等を殺され、わが身も傷を被り二度まで流罪にあい、あげくに首を切られようとした。」この御文は開目抄にもよく似た御文があります。御書の200頁に:

[日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
 これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ。]

後半のところでは:

「構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ、但(ただ)偏(ひとえ)に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ、若干(そこばく)の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり。此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」

というところが有名な御文でしょう。多くの武士が幾多の戦いの中で亡くなったにも関わらず、弥三郎が生き残ったのはこの法論・法戦にあうためであったと考えなさいと言われています。この世に生を受けたのは仏法の正義を守り興隆するためであったと腹を決めることだと言われている。

「此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、」のところは、弥三郎に、法が勝つか負けるかの瀬戸際に立っていることを認識させ、法論に勝って名を高めなさいと激励されている。

 

ところでこの弥三郎という人は、船守弥三郎のことかと思いそうですが、全く別人だそうです。

一説によると静岡県沼津市の斎藤弥三郎のことだと言われています。

弥三郎が浄土宗の人と法論を行う時の内容の準備や心構えについて、身延におられる大聖人に御指南を仰いだのに対し、懇切丁寧に答えられたのがこのお手紙です。浄土宗の人の折伏に使えそうですが・・・最近そういう折伏は少ないですかね。

 

(追記:2023年3月号 大白蓮華 研修教材にも取り上げられています)