御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

聖人御難事 (出世の本懐御書)  1189頁 58歳御作

日蓮大聖人の出世の本懐について書かれた唯一の御書。建長5年の立宗宣言より27年で出世の本懐を遂げると書かれています。弘安2年10月12日に本門戒壇の大御本尊を顕されたのに対して、この御書は10月1日にしたためられています。当時日興上人を中心として弟子・信徒の折伏の戦いによって、熱原法難が起こり、信心強盛になった農民信徒たちが迫害を受けました。

全部は載せていないので、御書をお読みくださいね。大事なところを載せました。

 

仏(釈迦)は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げられた。その間の大難は言い尽くせないほどであり、余(私・日蓮)は二十七年である。その間の大難は各々がよくご存じの通りである。

釈迦は30歳で成道し、40余年諸経を説き、最後の8年間で法華経を説いた。中国の天台大師智顗は23歳の時に法華経を究め、57歳のときに摩訶止観を講じて一念三千の法門を明らかにした。一念三千こそ法華経によって得た悟りの極理であり天台の出世の本懐と言える。日本の伝教大師最澄延暦23年(804年)に唐に渡って天台仏法の相承を受け、その後天台法華の戒壇建立のために努力し没後7年にして実現をみた。その間25年が経っている。

況滅度後(如来の滅後はなおさらである)という大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだあわれていない。法華経の行者でないかというと、どうして行者でないことがありえようか。しかし、行者だと言おうとすれば仏のように身から血を出したこともない、ましてや仏に過ぎた大難もない。経文が空しくなる。仏説すでに大虚妄となってしまった。
 ところが日蓮二十七年の間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずを蒙り左の手を折られた。同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭(くび)の座に望んだ。そのほかに弟子を殺されたり、切られたり、追放されたり、罰金刑に処せられた等、数がわからないほどである。仏の大難には及ぶか勝れているのか、それは知らない。竜樹・天親・天台・伝教は日蓮に肩を並べがたい。日蓮末法に現れなければ仏は大妄語の人で、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明になる。仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言(みことば・金言)を助けた人は・ただ日蓮一人なのである。

 過去および現在の末法法華経の行者を軽蔑したり賤しんだりする王臣万民は、始めは何事もないようであるが、必ず最後は滅びない者はいない。日蓮もまたその通りである。始めはしるしがないようであるけれども、今まで二十七年の間、法華経の守護の梵釈・日月・四天王等があまりに守護しなければ、仏前の御誓が嘘になって無間大城(地獄)に堕ちてしまうと恐ろしく思っているから、今は各々励んでいるのであろう。大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰が現れたのであろうか。

罰には総罰・別罰・顕罰・冥罰の四種類がある。日本国の大疫病と大飢饉と同士討ちが起こり、他国より攻められているのは総罰である。疫(やく)病は冥罰である。大田等の落馬は現罰なり別罰である。

各各(おのおの)師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり、【各々は師子王のような強盛な心を取り出してどのように人が威嚇しても決して恐れることがあってはならない。師子王は百獣に恐れない。師子の子もまた同じである。かれら正法を誹謗する人々は野干(狐の類)が吠えているようなものであり、日蓮大聖人の一門は師子の吠えるのと同じである。

 月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。【月々日々に信心を奮い起こしていきなさい。少しでも弛む心があれば(信心サボっちゃうと)魔がそれにつけこんで襲ってくるでしょう。

 

 信心は常に前進し成長しようとする心の中にある。常に魔と戦うことをしなければなかなか前に進めないことがある。「もうええやん、よう頑張ったし、ちょっと休み」なんていう甘い自分と戦わなければいけないのだ~外からの攻めには強くても自分の中の魔には弱かったりするのだ。1歩進んで2歩下がるってこともよくある。

信心というものはどこまで前進してもここで終わり、完成しましたってことがないのです。は~しんど、終わりなき旅です。でも終着点に意味があるというより途中の仏道修行の中に幸せはいっぱいあるのです。自他供の幸福のために使命を果たせることの中に最極の仏の生命、仏界の命が輝いているのです。さあ、頑張ろ!ちょっと休んでもすぐ起きて前へ前へと進めばいい。しんどかったらちょこっと休んで前に向かおう、と思う今日この頃です。

このあとの御書で大聖人は強く激励するのはいいが、脅さないようにと言われているところがあります。たとえがおもしろいのです。

 

彼(か)の熱原の愚癡の者ども【信心が弱くて愚痴を言っている信者たち】には、言い励まして・おどしてはいけない。彼らにはただいっそのことお思いきるようにと、良い結果は不思議であり悪いことは当然と考えなさいと。空腹で死にそうだと思ったら餓鬼道を教えなさい、寒くてたまらんと言えば八寒地獄を教えなさい。恐ろしいと言うなら鷹(たか)にあったきじや猫(ねこ)にあった鼠(ねずみ)を他人と思ってはならない、と。

このようにこまごまと書いたことは各年年・月月・日日に言ってきたことが名越の尼や少輔房・能登房・三位房などのように、臆病で求道心がなく、欲深く・疑い深い者どもは・塗ったうるしに水をかけ、空を刀で切るようなもんだ。一向に教えたことが何のためにもなってないのである。。1191頁4行目まで

 

 大事なことが書かれていますが御書は3頁ほどなのですぐ読めると思います。

わかりやすいように現代語に直して書きました。全文現代語の御書はいつできるのかな~