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御書を拝読して感動したことなどを書きます。

神国王御書 1516頁 (新版御書 671~685頁)54歳御作

建治元年(1275年) 身延で著されました。対告衆は不明です。

【内容を簡単にまとめました】

我が国が神の国であることを述べ、仏教の伝来によって日本国は一閻浮提の内、八万の国にも超えた神仏守護の国となったと明かしています。

本来なら神仏の加護が深いはずの国主が、未曾有の不祥事を招いたことに対して、誤った仏法を信じ法華経を誹謗した罪によると述べられています。

最後には迫害を受けている法華経の行者を、諸天善神は守護すべきであると諫められています。

 

(047)神国王御書 (最初のところは少し現代語に変えています。長いので途中まで載せました)

 つらつら考えてみると、日本国は、また水穂の国と云い、また野馬台、また秋津島、また扶桑等云々。六十六国・二島、已上六十八箇国。東西三千余里、南北は定まっていない。この国に五畿七道あり。五畿と申すは、山城・大和・河内・和泉・摂津等なり。七道と申すは、東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七箇国・山陰道八箇国・山陽道八箇国・南海道六箇国・西海道十一箇国はまた鎮西と云い、また大宰府とも言う。以上これは国である。
 国主についてみれば、神世十二代は天神七代・地神五代なり。天神七代の第一は国常立尊(くにのとこたちのみこと)であり、乃至、第七は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)〈男なり〉と・伊弉冉尊(いざなみのみこと)〈妻なり〉である。。地神五代の第一は天照太神伊勢大神宮・日の神これなり。いざなぎ・いざなみの御女なり。乃至第五は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)である。この神は第四のひこほの御子なり。母は竜の女なり。已上、地神五代。已上十二代は神世なり。
 人王は大体百代なるべきか。その第一の王は神武天皇。これはひこなぎさの御子なり。乃至第十四は仲哀天皇〈八幡の御父なり〉、第十五は神功皇后〈八幡の御母なり〉、第十六は応神天皇、仲哀と神功の御子、今の八幡大菩薩なり。乃至第二十九代は宣化天皇なり。この時までは、月氏・漢土には仏法ありしかども、日本国にはいまだわたらず。
 第三十代は欽明天皇。この皇は第二十七代の継体の御嫡子なり。治三十二年。この皇の治十三年壬申十月十三日辛酉、百済国の聖明皇、金銅の釈迦仏を渡し奉る。今、日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申す、これなり。その表の文(上表文)に云わく「臣聞くならく(私が聞くには)、万法の中には仏法が最も善い。世間の道にも仏法最も上なり。天皇陛下もまた応に修行すべきであります。故に、つつしんで仏像・経教・法師を捧げて使いに託して献上します。よろしく信仰していただきたいと思うものです」已上ところが、欽明・敏達・用明の三代の三十余年は崇め給うことがなかった。その間にさまざまなことがあったが、その時の天変地夭は今の代にこそ似ているけれども、今はまたその代には比べることのできないほど大きな変夭(大きな災い)なのである。

 第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛んにひろまり給いき。この時、三論宗成実宗と申す宗、始めて渡って候いき。この三論宗は、月氏にても、漢土にても、日本にても、大乗宗の始めなり。故に、宗の母とも、宗の父とも申す。

人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗がわたる。人王四十代天武の御宇に法相宗がわたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経がわたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せされた。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗法華宗わたる。しかりといえども、ただ律宗ばかりを弘めて、天台法華宗は弘通はなかった。
 人王第五十代に最澄と申す聖人あり。法華宗を我と見出だして、俱舎宗・成実宗律宗法相宗三論宗華厳宗等の六宗をせめおとし給うのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給う。いわゆる、法華宗真言宗禅宗・大乗の律宗なり。しかりといえども、法華宗律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給わず、真言宗をば宗の字をけずり、ただ七大寺等の諸僧に灌頂を許し給う。しかれども、世間の人々はいかなる故ということをしらず。当時の人々の云わく「この人は、漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくわしく知ろしめさざりけるか」とすいし申すなり。
 同じき御宇に、空海と申す人、漢土にわたりて真言宗をならう。しかりといえども、いまだこの御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の住処・東寺を給わって、護国教王院とごうす。伝教大師御入滅の一年の後なり。

人王五十四代仁明天皇の御宇に、円仁和尚、漢土にわたりて、重ねて法華・真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に、仁寿と斉衡とに金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏、已上十四巻を造って、大日経の義釈に並べて真言宗の三部とごうし、比叡山の内に総持院を建立し、真言を弘通すること、この時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども、法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくといいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとおもいけり。しかれども、座主は両方を兼ねて兼学し給いけり。大衆もまたかくのごとし。
 同じき御宇に、円珍和尚と申す人、御入唐。漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝。この人は、本朝にしては叡山第一の座主・義真、第二の座主・円澄、別当・光定、第三の座主・円仁等に法華・真言の両宗をならいきわめ給うのみならず、また東寺の真言をも習い給えり。その後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給う。今の三井寺の法華真言の元祖、智証大師これなり。已上、四大師なり。
 総じて、日本国には真言宗にまた八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。
 人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は太政入道の女・建礼門院なり。この王は元暦元年乙巳三月二十四日、八島にして海中に崩じ給いき。この王は源頼朝将軍にせめられて、海中のいろくずの食となり給う。人王八十二代は隠岐法皇と申す。高倉の第三王子、文治元年丙午御即位。八十三には阿波院、隠岐法皇の長子、建仁二年に位を継ぎ給う。八十四代には佐渡院、隠岐皇の第二王子、承久三年辛巳二月二十六日に王位につき給う。同じき七月に佐渡の島へうつされ給う。この二・三・四の三王は父子なり。鎌倉の右大将の家人・義時にせめられさせ給えるなり。
 ここに日蓮大いに疑って云わく、仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり主なり親なり。三界の諸王は、皆はこの釈迦仏より分かち給いて、諸国の総領・別領等の主となし給えり。故に、梵釈等は、この仏を、あるいは木像、あるいは画像等にあがめ給う。須臾も相背かば、梵王の高台もくずれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかぼり落ち給うべし。神と申すは、また国々の国主等の崩去し給えるを、生身のごとくあがめ給う。これまた、国王・国人のための父母なり主君なり師匠なり。片時もそむかば、国安穏なるべからず。これを崇むれば、国は三災を消し、七難を払い、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給うべし。
 しかるに、我が日本国は、一閻浮提の内、月氏・漢土にもすぐれ、八万の国にも超えたる国ぞかし。その故は、月氏の仏法は西域等に載せられて候ただ七十余箇国なり。その余は皆外道の国なり。漢土の寺は十万八千四十所なり。我が朝の山寺は十七万一千三十七所。この国は、月氏・漢土に対すれば、日本国に伊豆の島を対せるがごとし。寺をかずうれば、漢土・月氏にも雲泥すぎたり。かれはまた大乗の国、小乗の国、大乗も権大乗の国なり。これは寺ごとに八宗・十宗をならい、家々宅々に大乗を読誦す。彼の月氏・漢土等は、仏法を用いる人は千人に一人なり。この日本国は外道一人もなし。
その上、神はまた第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等三千余社、昼夜に我が国をまぼり、朝夕に国家を見そなわし給う。その上、天照太神は内侍所と申す明鏡にかげをうかべ、内裏にあがめられ給い、八幡大菩薩は宝殿をすてて主上の頂を栖とし給うと申す。仏の加護と申し、神の守護と申し、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて、あるいは殺され、あるいは島に放たれ、あるいは鬼となり、あるいは大地獄には堕ち給いしぞ。   

 

(長い御書なので途中まで貼り付けました。続きは↓)676頁4行目からです。

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