仏の智慧は甚深無量で、その智慧の門は難解でわかりにくいというのです。
で、この御義口伝も結構難しくて、わかりやすく直していこうとすると、頭がおかしくなりそうです。途中まで青字で書きましたが、だんだん理解できなくなってきた。
池田先生の講義があったらいいなと期待しています。本文載せているので読める人は頑張って読んでみてください。
講義を読んで何か書くことがあれば追加するかもしれません。
第二 「諸仏智慧甚深無量。其智慧門(諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は)」の事
【方便品第二の「諸仏智慧、甚深無量」の経文について、】文句の三では、次のようにいっている。「この文のうち、まず「甚深無量」の文は、実(実智=仏の智慧)を賛嘆し説明し、次に「其智慧門、難解難入」とは、権(権智=九界の智慧)を讃嘆している。実というのは諸仏の智慧であり、蔵・通・別の三種の化他の権実ではない。すなわち爾前経で説くところの権実は「実」は始成正覚の仏であり、「権」はその仏を理想として難行苦行の修行を積む衆生であり、ともにはかない夢のできごとのようなものであって、ここではそのような権実をいうのではない。今、実というのはまさしく自行の実、すなわち究竟真実の随自意の妙法のことなのである。
故に『諸仏』と云う。自行の実を顕す。故に『智慧』と言う。
この智慧の体は、即ち一心の三智なり。(この智慧の体とは、一切智、道種智、一切種智の三智を妙法の一法に具足するという一心の三智をいうのである。)
『甚深無量』とは、即ち称歎の辞なり(称賛のことばである)。
仏の実智の竪に如理の底に徹ることを明かす。故に『甚深』と言う。横に法界の辺を窮む。故に『無量』と言う。無量・甚深にして、竪に高く横に広し。譬えば、根深ければ則ち条茂く、源遠ければ則ち流れ長きがごとし。実智既にしかれば、権智例してしかり云々。『其智慧門』とは、即ちこれ権智を歎ずるなり。
けだし、これ自行の道前の方便にして進趣の力有り。故に名づけて門となす。門より入って道中に到る。道中を実と称し、道前を権と謂うなり。『難解難入』とは、権を歎ずるの辞なり。謀らずして了するは、無方の大用なり。七種の方便、測度すること能わず。十住に始めて解し、十地を入となす。初と後とを挙ぐ。中間の難示難悟は知るべし。しかるに、別して声聞・縁覚の知ること能わざるところを挙ぐることは、執重きが故に、別してこれを破するのみ」。
記の三に云わく「『竪に高く横に広し』とは、中において法・譬・合あり。これをもって後を例す。今、『実』を釈するに、既にあまねく横・竪を窮むれば、下に『権』を釈するに、理は応に深極なるべし。下に当に『権』を釈すべければ、あらかじめその相を述ぶ。故に『云々』と註す。『其智慧門』とは、『其』とは乃ち前の実果の因智を指す。もし智慧即ち門ならば、門はこれ権なり。もし智慧の門ならば、智は即ち果なり。『けだし、これ』等とは、この中にすべからく十地をもって『道前』となし、妙覚を『道中』となし、証後を『道後』となすべし。故に知んぬ、文の意は因の位に在り」。
御義口伝に云わく、この本末の意、分明なり。中に「竪に高く横に広し」とは、「竪」は本門なり、「横」は迹門なり。「根」とは、草木なり。草木は上へ登る。これは迹門の意なり。「源」とは、本門なり。源は水なり。水は下へくだる。これは本門の意なり。「条茂し」とは、迹門十四品なり。「流れ長し」とは、本門十四品なり。「智慧」とは、一心の三智なり。「門」とは、この智慧に入るところの能入の門なり。「三智の体」とは、南無妙法蓮華経なり。「門」とは、信心のことなり。ここをもって第二の巻に「以信得入」と云う。「入」と「門」とはこれ同じきなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るを、「智慧」とは云うなり。
譬喩品に云わく「唯有一門(ただ一門のみ有り)」。「門」において、有門・空門・亦有亦空門・非有非空門あるなり。有門は、生なり。空門は、死なり。亦有亦空門は、生死一念なり。非有非空門は、生にあらず、死にあらず。有門は、題目の文字なり。空門は、この五字に万法を具足して凝らざる義なり。亦有亦空門は、五字に具足する本迹なり。非有非空門は、一部の意なり。この内証は、法華已前の二乗の智慧の及ばざるところなり。文句の三に云わく「七種の方便、測度すること能わず」。今、日蓮等の類いは、この智慧に得入するなり。よって、偈頌に「除諸菩薩衆 信力堅固者(諸の菩薩衆の、信力堅固なる者を除く)」と云うは、我ら行者のことを説くなり云々。