第九 「今此三界(今この三界)」等の事
【ここは有名な「如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居し、林野に安処せり」「今此の三界は、皆是れ我が有なり、その中の衆生は、ことごとく是れ吾が子なり、しかも今このところは、もろもろの患難多し、唯我れ一人のみ、能く救護を為す」のところである。】
文句の五に云わく「次に『今此三界』より下、第二に一行半は、上の『所見諸衆生、為生老病死之所焼煮(見るところの諸の衆生は、生老病死の焼煮するところとなる)』を頌(じゅ)して、第二の見るところの火の譬えを合す。『唯我一人(ただ我一人のみ)』より下、第三に半偈は、上の『仏見此已、便作是念(仏はこれを見已わって、便(すなわ)ちこの念を作す)』を頌(じゅ)して、『驚入火宅(驚いて火宅に入る)』を合するなり」。
御義口伝に云わく、この文は一念三千の文である。一念三千の法門は、迹門には生(衆生世間)・陰(五陰世間)の二千の世間を明らかにし、本門で国土世間を明らかにしているのである。
また云わく、(またこのように取ることもできる)「今此三界」の文は、国土世間である。「其中衆生(その中の衆生)」の文は、五陰世間である。「而今此処 多諸患難 唯我一人(しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ)」の文は、衆生世間である。
また云わく、「今此三界」は、法身如来である。「其中衆生 悉是吾子(その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり)」は、報身如来である。「而今此処」等は、応身如来となるのである。
<最後の所の説明>
今此三界の三界とは大宇宙であり、大宇宙の生命即法身如来なのである。
其中衆生 悉是吾子(その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり)とは、一切衆生を我が子と思う慈悲の一念で報身如来である。
而今此処 多諸患難 唯我一人(しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ)とは、苦悩に沈む民衆のなかに飛び込んで、実際に救っていく実践活動であり、応身如来である。