第十七 「放逸著五欲 堕於悪道中(放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕つ)」の事
勤行でよく読んでるから、ここへ来たら思い出してくださいね~
「ほういつ=謗法の人は五欲に執着して、悪道に堕ちていくんやなって」
御義口伝に云わく、「放逸」とは、謗法の名なり。「入阿鼻獄(阿鼻獄に入る)」、疑いなきものなり。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、この経文を免離せり云々。
第十八 「行道不行道(道を行じ道を行ぜず)」の事
御義口伝に云わく、十界の衆生のことを説くなり。「行道」は四聖、「不行道」は妙の照覧六道なり。また云わく、「行道」は修羅・人・天、「不行道」は三悪道なり。詮ずるところ、末法に入っては、法華の行者は「行道」なり、謗法の者は「不行道」なり。「道」とは、法華経なり。天台云わく「仏道とは、別して今経を指す」。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「行道」なり。唱えざるは、「不行道」なり云々。
わかりやすいと思うので、そのままでいいかな~
<講義より>
目に見えざる世界を確信していくのが信心である。目に見える世界を追い、功をあせり、形式に流される人は必ず行き詰まる。奥底の一念は見えない。だが、必ず、その一念は三千羅列の目に見える姿として輝いていく。これが仏法である。冥の照覧をどこまでも確信しきった人が最後の、しかも永遠の勝利者になる。