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御義口伝 法師品十六箇の大事 第十六  新版1030頁

第十六 「得見恒沙仏(恒沙の仏を見たてまつることを得)」の事
  御義口伝に云わく、「見恒沙仏」とは、「見宝塔」ということなり。「恒沙仏」とは、「多宝」のことなり。多宝の「多」とは法界なり、「宝」とは一念三千の開悟なり。法界を多宝仏と見るを、「見恒沙仏」と云うなり。故に、法師品の次に宝塔品は来るなり。解・行・証の法師の乗り物は宝塔なり云々。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、妙解・妙行・妙証、不思議の解・不思議の行・不思議の証得なり。真実一念三千の開悟なり云々。
  この「恒沙」というは、悪を滅し善を生ずる河なり。「恒沙仏」とは、一々文々皆金色の仏体なり。「見」の字、これを思うべし。仏見ということなり。「随順」とは、仏知見なり。「得見」の「見」の字と「見宝塔」の「見」とは、依正の二報なり。「得見恒沙」の「見」は正報なり、「見宝塔」の「見」は依報なり云々。

 

<講義より>

一念三千を開悟する文である。

「見恒沙仏とは見宝塔と言うことなり」の御文は、法師品第十の次に、見宝塔品第十一となる段階をすでに明かしている。

法師品の法師とは日蓮大聖人のことであり、見宝塔品の宝塔とは南無妙法蓮華経の御本尊のことである。ともに人法一箇の御本尊を顕されている。「多宝」の「多」は法界すなわち宇宙それ自体である。「宝」とは、一念三千すなわち南無妙法蓮華経のことである。したがって、全宇宙の本源はすべて多宝仏にあらざるものはなく、我らの生活に約せば、森羅万象ことごとく無量の宝であり、功徳である、慈悲であると開悟することが「見恒沙仏」というのである。

中略

また、恒沙について、悪を滅し、善を生ずる河と言われているが、これ御本尊の功力を説いたもので、我らの悪を滅して、仏界の生命を湧現するようになることである。随順とは、信受といい、仏知見といい、所詮、信心のことであり、すなおな信心により初めて仏を知見できるのである。

「得見の見の字と、見宝塔の見とは依報の二報なり」とは、得見恒沙仏法の見は正法であり、すなわちわれらが当体である。「見宝塔」の見は依報、客体であり、すなわち御本尊のこととなるのである。