第四 「凡有(ぼんぬ)所見(およそ見るところ有る)」の事
御義口伝に云わく、今、日本国の一切衆生を法華経の題目の機なりと知見することである。
(すなわち、全民衆がこの南無妙法蓮華経に帰依すべき機根であると見ていくのである。)
第五 「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我は深く汝等を敬い、あえて軽慢せず。所以はいかん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)」の事
御義口伝に云わく、この二十四字と妙法の五字は替われども、その意はこれ同じ。二十四字は略法華経である。
<講義より>
難しい説明は省きます。
「我深く汝等(なんだち)を敬う」との精神が、現代の世界に生かされたならば、どれほど、明るく、住みよい社会になるかと思われてならない。国家と国家、民族と民族、また、階級間の対立、為政者と民衆の関係をみても、そこには憎悪と軽蔑と反感が渦巻いている現状である。
憎悪は憎悪を招き、軽蔑は軽蔑を誘発する。そこに世界を混乱と破壊と退廃に陥れている根本原因がある。
<感想>
互いの人間性を尊敬しあう、この不軽の心を生かしていかねばならないと思った。
第六 「但行礼拝(ただ礼拝を行ずるのみ)」の事
御義口伝に云わく、「礼拝」とは、合掌である。「合掌」とは、法華経の異名である。これ即ち(事の)一念三千である。故に「不専読誦経典、但行礼拝(もつぱらに経典を読誦せずして、ただ礼拝を行ずるのみ)」と説かれたのである。
<講義より>
不軽菩薩の但行礼拝とは、所詮、日蓮大聖人の仏法において、事の一念三千の御本尊に合掌して題目を唱えることである。この御本尊を境として、境智冥合したとき、我が身一念三千の当体とあらわれるのである。