御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 常不軽品 第七~第八 全764 新1065頁

第七 「乃至遠見(乃至遠く見る)」の事

 

ここは、常不軽品第二十で「凡(およ)そ見る所ある」一切の衆生を礼拝したのみならず「乃至遠く四衆を見ても、亦復(またまた)故(ことさら)に往(ゆ)いて礼拝讃歎」したと述べられている文についての御義口伝です。

 

  御義口伝に云わく、上の「凡有所見(およそ見るところ有る)」の「見」は、内証に具するところの仏性を見ることである。これは理である。「遠見」の「見」は、実際に四衆を見るというように、事である。(すなわち事実の生命の上に仏界をあらわしていくことを意味する。)よって、上(凡有所見)は心法を見るのである。今(乃至遠見)とは色法を見るのである。

 

色法は本門の開悟(色法の上に仏界を湧現するのは本門の開悟であり、因果国の三妙に合論して本門の上で、)四一開会する。(すなわち教・行・人・理に約して仏界を湧現する立場である。)

心法を見るのは迹門の意であり、(諸法実相また開示悟入の四仏知見に約した、理の)四一開会である。

「遠」の一字は、寿量品の久遠をあらわしている。故に「故往礼拝(ことさらに往って礼拝す)」と説かれているのである。すなわち「故に往いて」とは久遠にさかのぼるということである。

 

<講義より>

自ら行動し。実践して、事実の上にあらわしていくのが本門である。一切衆生が御本尊を信ずべき機根であると知見することが説かれた。だが、そう知見するのみでは迹門である。この確信に立って、一人ひとりに折伏して御本尊を受持させ幸せにしていく。これで初めて本門となり、事となるといえよう。

自分の身近な人ばかりでなく、あらゆる不幸な人を救っていくことである。遠くの人を救いに行く場合も、たとえ距離的には近くでも、これまで赤の他人であった人に、何とか救ってあげたいとの一念から話しかけ、折伏する場合も、どちらも「故に往いて」の文に通ずるのではないだろうか。

 


第八 「心不浄者(心不浄なる者)」の事


  御義口伝に云わく、謗法の者は色心二法共に不浄である。まず心法不浄の文は、今この「心不浄者」の文である。また身不浄の文は、譬喩品に「身常臭処 垢穢不浄(身は常に臭きに処して、垢穢(くえ)不浄なり)」と述べられているのにあたる

今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、色心共に清浄である。

身浄とは、法師功徳品に云わく「若持法華経 其身甚清浄(もし法華経を持たば、その身は、はなはだ清浄なり)」の文にあたる。

心浄(心法が浄らかであることを述べた文は、提婆品の「浄心信敬(浄心に信敬す)」にあたる。浄とは、法華経の信心であり。不浄とは、謗法である

 

<講義より>

人間性の本心を取り戻すただ一つの道は、正しい仏法を信ずることであり、御本尊を受持し題目を唱えることである。

 

<感想>

清浄な心をこの五濁の世の中で持ち続けることは難しい問題と言える。私たちもいつ何時汚い生命が出てくるかもしれない。元品の無明と、法性とは常に表裏一体なので、題目根本に生きないと、すぐに悪い生命に傾くと言える。それが自分を不幸の方へ導いてしまうということを忘れまい。