第十一 「於四衆中説法、心無所畏(四衆の中において法を説くに、心に畏るるところ無し)」の事
【ここは、常不軽品第二十において、仏が不軽菩薩について「斯の諸仏の法の中において、受持読誦して、諸(もろもろ)の四衆のためにこの経典を説くが故に、この常眼清浄、耳、鼻、舌、身、意の諸根の清浄を得て、四衆の中において法を説くに、心畏るる所なかりき」と述べたところの御義口伝です。】
御義口伝に云わく、「四衆」とは、日本国の中の一切衆生のことである。「説法」とは、南無妙法蓮華経である。「心無所畏」とは、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱えて行ずるところの折伏である。
<感想>
畏(おそ)れるというのは恐れると同じ意味と取っていいと思います。折伏するには勇気がいるということですね。
あらゆる人に勇敢に折伏を行じていくのが真の地涌の菩薩であり、如来の使いであると、講義にありました。
第十二 「常不軽菩薩豈異人乎。則我身是(常不軽菩薩はあに異人ならんや。則ち我が身これなり)」の事
御義口伝に云わく、過去の不軽菩薩は今日の釈尊である。釈尊は寿量品の教主であり、その寿量品の教主とは、我ら法華経の行者のことなのだ。つまり我らのことである。今、日蓮等の類いは、不軽と同じである。
(万人の生命にある仏性を信じて折伏するのだ~)
★常不軽品って30個の大事なことがあるのですが、また半分行ってない~がんばろ!