御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 涌出品一箇の大事  新版1046頁

いよいよ上巻の最後の御義口伝まできましたね~感無量です。

ここの御義口伝は本文も長めですし、講義も長くて結構深い話が含まれています。

入信当時よく聞いた四菩薩のことも詳しく説かれています。復習の意味で座談会などで四菩薩について研究発表なんかされるといいなと思いますね。四菩薩と四大はつながってるってとこも、すごい。地水下風空の五大は我らが生命、即ち南無妙法蓮華経をあらひとわしているのですが、ここでは四菩薩に寄せて四大のことが書かれています。

二死のこと、前に読んだけど忘れてました。あんまり出てこないですからね。二死の表の聖者にいづるを上行と名け、だそうです。ここの講義も初めて読んだくらいの感動があってよかったです。何を学んでも忘れるから、また感動出来ていいんだけど、ちょっと情けないかな。

本文のあとに講義のまとめを書きますね。

 

第一 「唱導之師(唱導の師)」の事
  御義口伝に云わく、涌出の一品は、ことごとく本化の菩薩のことなり。本化の菩薩の所作は、南無妙法蓮華経なり。これを「唱」というなり。「導」とは、日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導することなり。末法の導師とは本化に限るというを「師」と云うなり。
  この四大菩薩のことを釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云わく「経に四導師有りとは、今、四徳を表す。『上行』は我を表し、『無辺行』は常を表し、『浄行』は浄を表し、『安立行』は楽を表す。ある時には、一人にこの四義を具す。二死の表に出ずるを『上行』と名づけ、断・常の際を踰ゆるを『無辺行』と称し、五住の垢累を超ゆるが故に『浄行』と名づけ、道樹にして徳円かなるが故に『安立行』と曰うなり」。
  今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の流類なり。
  また云わく、火は物を焼くをもって行とし、水は物を浄むるをもって行とし、風は塵垢を払うをもって行とし、大地は草木を長ずるをもって行とするなり。四菩薩の利益これなり。四菩薩の行は不同なりといえども、ともに妙法蓮華経の修行なり。
  この四菩薩は「下方」に住するが故に、釈に「法性の淵底、玄宗の極地」と云えり。「下方」をもって住処とす。「下方」とは真理なり。輔正記に云わく「『下方』とは、生公の云わく『理に住するなり』と」云々。この理の住処より顕れ出ずるを、事と云うなり。
  また云わく、千草万木、地涌の菩薩にあらずということなし。されば、地涌の菩薩を本化と云えり。本とは、過去久遠五百塵点よりの利益として、無始無終の利益なり。この菩薩は本法所持の人なり。本法とは、南無妙法蓮華経なり。この題目は、必ず地涌の所持の物にして、迹化の菩薩の所持にあらず。この本法の体より用を出だして、止観と弘め、一念三千と云う。総じて大師・人師の所釈も、この妙法の用を弘め給うなり。
  この本法を受持するは、信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は、信の一字なり。「疑いなきを信と曰う」の釈、これを思うべし云々。

 

 御義口伝巻上
   弘安元年戊寅正月一日    執筆 日興

 

<講義より>

二死の表に出づるを上行と名付けというところ、二死とは分断、変易(へんにゃく)等のことで、これらの生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯を上行と名付ける。題目を唱え、仏界を湧現した生活は何ものにもおかされない、力強い生命活動の現れである。上行こそ真の自由の境涯なのです。

分断の生死とは三界六道の生死で、いわゆる迷いの生死であり、不善業。煩悩・業の因縁で六道の間、それぞれの果報の身を現ずる。それに分限段落の差があるので、分段という。

変易(へんにゃく)の生死とは三界六道を出た生死で、見思惑の惑を断じた声聞・縁覚・菩薩等の生死である。修行の過程で煩悩を断ち、智慧を開いていくゆえに変易の生死である。分段・変易の生死を合わせて二種生死という。

 

断常の際(きわ)とは、断見と常見のことで、外道の生命観である。断見とは身心ともにこの一生を限りとして、断絶し、再び生まれることがないという思想。

常見とは心身ともに常在不滅であると説くが、鳥はいつも鳥、人は必ず人に生まれると説いて、真の因果を説かぬ思想。いずれも偏見。

 

結局、御本尊を信じ、題目をあげていくことそれ自体が、二死の表にでたことになり、断常の際をこえたことにもなり、五住の垢累(くるい)を超えたことにもなり、徳まどかなることになるのである。

牧口先生いわく、「信心しきった場合には一見すれば立派な平凡な人間である」と。

戸田先生も「私はりっぱな大凡人である」といわれたそうです。

徳まどかな人間目指して信心根本に頑張りたいと思います。