第二十 「我本行菩薩道(我は本菩薩の道を行ず)」の文は礼拝の住所の事
御義口伝に云わく、「我」とは、本因妙の時(の姿)を指すのである。「本行菩薩道(もと、菩薩の道を行ず)」の文は、不軽菩薩の振舞いをいう。これを不軽菩薩の礼拝の住所とするのである。
第二十一 生老病死は礼拝の住所の事
御義口伝に云わく、一切衆生は生老病死を明らかに見極められず、生命の無常や変転しゆく姿に迷うために、後世の菩提つまり永遠の幸福をつかむことができないのである。
この永遠の幸福、成仏の境涯を示す時、煩悩即菩提・生死即涅槃と教える、その仏の当体を礼拝することを、不軽の礼拝というのである。
すなわち、左右の両手を開く時は、煩悩・生死であり、上慢の四衆と不軽とは各別(それぞれ違うもの=九界と仏界がひとつになっていない)である。
礼拝する時、両手を合わせるのは、煩悩即菩提・生死即涅槃である。上慢の四衆の生命にそなわっているところの仏性も、不軽の生命に具うるところの仏性も、同じ一つの種の妙法であると悟って礼拝するのである。
わかりやすいと思うので、講義を省きます。