第二十二 法性は礼拝の住所の事
御義口伝に云わく、不軽菩薩、法性真如の三因仏性たる南無妙法蓮華経の二十四字に足立って(足場として=二十四字を根本に)、無明の上慢の四衆を拝したのは、衆生に内在する仏性を礼拝したのである。
<感想>
どんな悪者にでも仏性はあるのですが・・・凡夫の目には映らないというか、信じられないことが多い。でも、絶対あるので、出す方法は題目しかない。本人が祈らないときはこっちが祈ってあぶりだす・・・私の説です。
仏界あぶり出し作戦。
第二十三 無明は礼拝の住所の事
御義口伝に云わく、自他の隔意(へだたり・差別)を立てて、彼は上慢の四衆、我は不軽と云い、不軽は善人、上慢は悪人と善悪を立てるのは、無明である。
ここに立って(しかし、この無明に立って)礼拝の行を成す時、(すなわち御本尊に題目を唱える時)善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝することになる。
<講義>
これは善と悪、邪と正を隔たりがあるものと見ていくのは、無明でありよくないことだ。しかしながら、善悪、邪正と分け隔てることがよくないとなれば、それは混乱であり、堕落以外の何物でもない。
仏法の精神は、善人も悪人も、邪も正も、共に妙法を根幹にしたときには救われ、社会、人類に価値を提供していくことが出来るということである。