第二十六 慈悲の二字は礼拝の住所の事
御義口伝に云わく、不軽礼拝の行は「皆当作仏(皆当に作仏すべし)」と教えているので慈悲である。既に(上慢の四衆によって)杖木・瓦石をもって打擲されても、「而強毒之(しかも強いてこれを毒す)=(しいて折伏)」するのは、慈悲より起こるのである。「仏心とは、大慈悲心のことである」と説かれているので、(不軽の)礼拝の住所は慈悲であるといえる。
第二十七 礼拝の住所は分真即の事
御義口伝に云わく、菩薩は(人を救っていく働きであるから)分真即の位と定められる。不軽はこの分真即の位に立って、理即の凡夫を礼拝した。これによって、(人々は)理即の(荒)凡夫であるから、この(皆当作仏の)授記を受けずしてかえって、「無智比丘(無智の比丘)」と謗ったのである。
※化他に出づるを分身即というのである。すなわち折伏する人が分真即である。
我ら折伏を行う学会員は不軽と同じ分真即の位である。
第二十八 究竟即は礼拝の住所の事
御義口伝に云わく、「凡有所見(ぼんぬしょけん=およそ見るところ有る)」の「見」は、仏知見をもって見るということである。仏知見をもって上慢の四衆を礼拝するがゆえに、(不軽の内証の境涯は究竟即であり、)究竟即を礼拝の住所と定めるのである。
※寿量品二十七箇の大事には「無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とはいうなり」と仰せである。
不軽菩薩は外用は菩薩であるが、内証はすでに仏である。
大聖人が地涌の菩薩の上首、上行菩薩であるとはいいながら、本地、内証は久遠元初自受用報身如来であり、末法の御本仏であるのと同じことである。