第四章 経釈を引き権実の意義を証す
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この教相を、無量義経に「四十余年、未顕真実」と説かれている。
未顕真実の諸経は夢の中のことを書いた権教である。故に、妙楽大師の法華玄義釈籤には「【夢を見ている時とうつつの時は】心性は異なることはないけれども、必ず幻によっているのであり、幻の機と幻の感(衆生が仏を感ずること)と幻の応(仏が衆生の機根に応ずること)と幻の赴(ふ=仏が衆生の機根に応じて出現すること)を起こしているのである。能応の仏も所化の衆生も、ともに幻の権であって、実なる存在ではない」と説かれている。つまり未顕真実の諸経は、皆、夢や幻の中のことを説いた方便の教えである。
「性は殊なることなしといえども」等とは、夢を見ているときの心性と寤の時の心性とはただ一つの心性であって、すべて異なるものではないけれども、夢の中の架空のことも、寤の時の実際の事も、二事は一つの心法からあらわれているのであるから、実は自身の心を見ているのであるという釈である。
故に、摩訶止観には「前の三教に説かれる四弘誓願は架空のものであり、能も所もともに滅びてしまう」と説かれている。
「四弘」とは、衆生の無辺なるを折伏しようと誓願し、煩悩の無辺なるを断じようと誓願し、法門の無尽なるを知ろうと誓願し、無上菩提を証得しようと誓願することをいうのである。これを「四弘」と云う。「能」とは如来なり、「所」とは衆生なり。この四弘は、能の仏も所の衆生も、前の三教は皆夢の中の是非であると釈されたのである。
したがって、法華以前の四十二年の間に説かれた諸教は、未顕真実の権教であり、方便である。法華経に取り寄せるべき方便であるから、真実ではないのである。
これは、仏が自ら四十二年の間説いた教えを集められた後に、今、まさに法華経を説こうとして、まず序分の開経の無量義経の時、仏自ら勘え定められた教相なのであるから、人の言葉も入るべきではなく、不審を生ずべきでもないのである。
故に、玄義に云わく「九界を権となし、仏界を実となす」と。九法界の権は四十二年の説教であり。仏法界の実は八年間の説で、法華経がこれである。故に、法華経を仏乗というのである。九界の生死は夢の世界の法理なので権教といい、仏界の常住は寤の法理なので実教という。
故に、釈尊の五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自らの悟りを明かした八年間の実教とを合わして五十年となる。権と実との二つの文字を鏡として諸経を見る時、その相違が明らかとなって曇りはないのである。