御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

弓箭御書 富木尼御前御返事 975頁 55歳御作

建治二年(1276年)3月27日。日蓮大聖人が55歳のとき、富木常忍の妻、富木尼御前に与えられたお手紙です。富木常忍が母の遺骨を抱いて身延の大聖人を訪ねた際、病気の尼御前のために託されたお手紙です。

 

有名な一節があります。

「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、」

矢=箭(や):別名の弓箭(きゅうせん)(ゆみや)御書というのはこの一節からきています。

「矢が飛ぶのは弓の力による。雲の行くのは竜の力、男の所業は女の力による。」

新婚当初(笑)によく聞いた御書の一節だったし、よく覚えています。とても懐かしい御書です。最近あんまり言われないので、忘れていましたが・・・(笑)

 「今富木殿のこれへ御渡りある事、尼御前の御力なり」と言われているように、

富木尼の内助の功によって富木常忍が身延まで来てくれたと喜んでおられます。

色んな意味で大聖人が、目に見えないところで富木殿を支えている尼御前に、思いを馳せておられるお手紙であると思います。

富木尼の病気に対しても細やかなご指導をされています。法華経の行者である尼御前の病気は必ず治り、寿命も延びると確信しなさい。あなたは竜女のあとをつぎ成仏し、また、釈尊の教団で初めて女として出家し、一切衆生喜見仏の記別を与えられた摩訶波舎波提比丘尼と同列に並ぶのである、と言われて励まされています。

 

赤字が2021年 7月度 座談会御書の範囲です。

 

 富木尼御前御返事 建治二年 五十五歳御作

 銭一貫文並びに筒ひとつをいただきました。矢の飛ぶことは弓の力、雲の行くことは竜の力、夫のしわざは、妻の力なり、今、富木殿がこの身延へ来られたことは尼御前のお力による。煙をみれば火を見る、雨をみれば竜を知り、夫を見れば妻をみる、今、富木殿にお会いしていると、尼御前を見ているように思われる。富木殿が話されていたことは、「この母が亡くなった嘆きのなかに、ご臨終が(安らかで)よかったことと、尼御前が手厚く看病してくれたことのうれしさは、いつの世になっても忘れられない」と喜ばれておりました。

なによりも気がかりなことは尼御前のご病気のことである。必ず治ると思って、三年間は終始おこたらず灸治していきなさい。病気でない人でも死は免れがたいものである。 ただし、あなたはまだ年老いたわけでもなく、法華経の行者であるから、非業の死などあるわけがない。まして業病であるはずもない。たとえ業病であっても法華経の御力は頼もしく、病が治らないわけがない。

阿闍世王は法華経を受持して四十年の寿命を延ばし、(天台大師の兄の)陳臣(ちんしん)は十五年の寿命を延ばしたと言われる。尼御前もまた法華経の行者で、御信心は月が満ち、潮が満ちるように強盛であるから、どうして病が癒えず、寿命の延びないことがあろうかと、強く思って、御身を大切にし、心の中であれこれ嘆かないことである。

もし、嘆きや悲しみが起きてきた時は、壱岐(いき)・対馬(つしま)の事、太宰府(だざいふ)の事を思い出されるがよい。天人のように楽しんでいた鎌倉の人々が、九州へ向かって行くにあたって、留まる妻子、行く夫、愛しい者同士が、顔と顔をすり合わせ、目と目をあわせて嘆き、生木をさかれる思いで別れを惜しみ、次第に離れて由比の浜、稲村、腰越(こしごえ)、酒匂(さかわ)箱根坂と一日、二日過ぎるほどに、歩一歩と遠くなって、その歩みを川も山も隔て、雲も隔ててしまうので、身に添うものはただ涙、ともなうものはただ嘆きばかりで、どんなに悲しいことであろうか。

こうした嘆きのなかに、蒙古の軍勢が攻めてきたならば、山や海で生け捕りになったり、船の中とか、高麗とかで、憂き目(つらい目)にあうであろう。このことは全く失(とが)もないのに、日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者・日蓮を、理由もなくそしり、あるいは打ち、あるいは街中を引き回して、物に狂っていたのが、十羅刹の責めを被って、このような目にあっているのである。彼らの身の上にはまだまだこれより百千万億倍耐え難い事が起こるであろう。こうした不思議をよくご覧なさるがよい。

我れ等は間違いなく仏になると思えば・なんの嘆きがあるであろう。きさきになっても何にもなろう。天に生れてもしかたがない。竜女のあとを継ぎ、摩訶波舎波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。なんとうれしいことであろうか!うれしいことである。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とお唱えなさい。恐恐謹言。
 三月二十七日 日 蓮花押
 尼ごぜんへ     

 

 

富木常忍のことを調べましたが、今で言うたら東大出の官僚みたいな人なんですね。でも地方公務員になるかな。大聖人から漢文で書いたお手紙もいただいて読めるんですから、識字能力が高い人です。賢いというしかない。普通の人は読めませんよ。四条金吾南条時光らとともに、門下の中心者として皆に大聖人からのお手紙を読み聞かせたり、法門を教えてあげたり、折伏したりしていました。近くには同志の大田乗明や曾谷教信らがいて、ともに戦っていました。亡くなった最初の奥さんは大田乗明の姉さんだったそうです。富木尼は再婚する時、後に六老僧の一人の日頂になる伊予房という男の子を連れていました。富木殿との間にも一人男の子が生まれたそうです。

熱原の法難が起こったころに、大聖人を謗っていた了性房や思念房という天台宗の学僧と法論して勝ったことがあります。大聖人様からは「今後下総では法論をすべきではない。」と注意されたようです。

身延から帰る時に、持経(読誦用の法華経の要文集)を忘れて帰ったので「日本第一の好く忘るるの仁か」(976)「日本で一番よく忘れる人ですね」と言われてしまいました。