御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

佐渡御書 956頁 51歳御作 戸田先生の講義

日蓮大聖人御書講義の第16巻の本が見つからなかったので、戸田先生の講義を見つけました。読んでいると面白い。昭和31年中之島公会堂で講義されたものです。

戸田先生も大阪だとユーモアのレベルが高い(笑)

御書は長くないですが、先生の講義は50頁もあります。全部は載せられないです。

感想を書きたいと思います。それと戸田先生のお話も面白いとこや、ためになる講義も載せましょう。

 

世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし。牛馬猶身を惜む、況(いわん)や人身をや、癩人猶命を惜む、何に況や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ、しかれどもゑ(エサ)にばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し、故に仏になる人もなかるべし。

 

皆人間は死というものが怖いのです。私も子供の時から怖かったです。今でも自分はいつどんな風に死ぬのか考えると怖いです。子供の時は両親が亡くなったら一人ぼっちになるのも怖かったです。誰でも死に対する恐怖はあるけれども、らい病の人でさえ命を惜しむ、ましてや丈夫な人であればなおさらであると、言われています。

その命をどう使うか。財宝を仏法に惜しむ者が自分の命を仏法に捧げられるのか、命を法華経に供養できるのか、と言われています。

戸田先生は「今はちょっと世の中が変わって命より金の方が大事であるという者が少し多いですから、昔と少し考え方が変わっています」と言われておかしかったです。「主人のために命を捨てるというのも御書には出てきますが、今はそんな人はいません。大阪には特にいないのではないでしょうか。借金のために首を吊って命を捨てた人はいるかもしれませんが、主人のために命を捨てる人はいないでしょう」と。

それほど大事な命でも何でなくすかはわからないものです。去年から新型コロナで世界中の人がどんどん亡くなって、第三次世界大戦でも起こったのかと思うほどの死者数を出しています。300万人を超えたそうです。世界全体の死者数は100万人を超えるまでは250日だったそうですが、200万人を超えるまでは108日、300万人を超えるまでは93日と間隔が短くなっています。日本では現在約1万3000人の人が亡くなっています。感染した人は約74万5千人です。新型コロナに感染した人達は無念にも亡くなられた人が世界中で300万人も超えたんですよ。目にも見えない小さなコロナウイルスという敵がどれほど恐ろしいか。

今朝(6月3日)の聖教新聞には5月31日には353万人亡くなったと書かれていました。WHOはこの感染症で亡くなった人はこの2~3倍にも上るとの推計を発表しているそうです。とんでもない数です。この記事の裏面に生の苦しみのことが書かれていました。生まれる時どれだけの苦しみがあるか、具体的に書かれていてよくわかりました。今まで生老病死の生の苦しみってただ生まれるときの苦しみだとさらっと考えていましたが、二足歩行の人類がどれだけ出産で苦労するのか具体的に書かれていて、なるほどと思いました。

 

仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩埵王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし

 

時の話が出てきます。今は末法という時なので、折伏をするしか仏になる道はないというのです。

畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。

戸田先生の講義から:

 我々は師子王のごとくいかなければならない。仏法のためにはライオンなのですから、毅然と生きていきましょう。ほかのものが恐れを抱くから大丈夫です。

おごれるものと大確信のある者とは違うのだと仰せなのです。悪口を言われてもびくともしないことです。

正法というのは一字一句でも時にかなえば仏になれるし、時にかなわなかったら、いくら経文を読んでも仏にならない。御書を読むことは仏になる道ではないのです。ほんとうのことをいうと、これはいらないものです。いらないものをなぜやるのかと言われても困りますが、やらないと退転するからです。今は御本尊流布することによって仏になれる時なのです。なにも知らないでもいいのです。御本尊様はありがたい。あなたも南無妙法蓮華経をやりなさい。御本尊様を拝みなさい。これでいいのです。なにも佐渡御書を覚えたからといって仏になれるのではありません。だが、佐渡御書の精神がわかると信心が強くなるから、信心を強くさせるために御書を学ぶのです。

宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云

仏教というものも内輪からこわされていくのです。外からこわされるのではない。

 大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、

大きな果報をもって生まれてきた人は、外から破ることはできないけれども、内輪から、親しい人から破ることができるというのです。内輪からものごとをぶち壊すのを自界叛逆難というのです。仲間われです。 仁王経の七難については立正安国論に詳しくありますから読んでいただきたいと思います。「聖人去る時七難必ず起こらん」と。日蓮大聖人様のような御立派な仏様、法華経を弘める人を佐渡に流したということは、必ず七難が起こるということです。

今国家を救わんがために本尊流布を行っている創価学会をもし国家の権力をもっていじめたりあるいはひどいことをすれば必ず国に七難が起こる。断固として言い切っていいのです。

 

 

戸田先生の講義はとてもわかりやすくおもしろいです。全部写すのは大変なので、この辺で置いておきます。

最後に佐渡御書で有名なところを載せておきます。佐渡御書の最後のところです。

これはさてをきぬ、日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して、我賢しと思はん。僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ、外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く、日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。

これはこわいところです、と戸田先生は言われている。大聖人が佐渡へ流されて、退転した人も多かった。退転したもののほうが信心してなくて陰口、悪口を言ってたものよりも罪は何十倍も大きいぞといっておられるのです。こわい御書です、と。

 また、戸田先生の講義に「最後のところは牧口先生がとっても喜んだ御文です」とありました。「日蓮御房は師匠にておわせども余(あまり)にこはし」日蓮大聖人様は師匠であるけれどもあまりにもやかましい。われわれはやさしく法華経を説いていこうと。みなもそう思っているのでしょう。この次がこわいのです。

螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし」のところです。折伏を、相手が気に入るようにやさしくやろうという連中はちょうどこれだと言って、初代会長が「笑うなるべし、笑うなるべし」と笑われていたそうです。

 

日蓮大聖人御書講義 第16巻が見つかりましたので、補足しておきます)

佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩あり、一人ももるれば恨ありぬべし。此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死する人人実不実は置く幾か悲しかるらん、いざはの入道さかべの入道いかになりぬらんかはのべ山城得行寺殿等の事いかにと書付て給べし、外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。

 

御書の最後の追伸のところです。紙がないことを書かれていますが、ほんとうに佐渡観心本尊抄を書かれたとき、和紙17枚の表と裏に書かれていたそうです。

佐渡御書も一人一人に書状も出せないので、心ある人々は集まり寄って拝読し信心を励ますよう勧められています。あわせて門下の消息を重ねて案じられるとともに必要な書籍を送るよう依頼されています。

 

とりあえず今日はここまでです。また気がついたことがあれば追記します。有名な佐渡御書なので読める人は読んでくださいね。6頁くらいの御書です。