(414)
堀内殿御返事
弘安3年(ʼ80)12月28日 59歳 堀内殿
十字三十。法華経の御宝前につみまいらせ候いぬ。またすみ二へい給び候い了わんぬ。恐々謹言。
十二月二十八日 日蓮 花押
ほりの内殿御返事
(416)
論談敵対御書
論談敵対の時、二口三口に及ばず、一言二言をもって退屈せしめ了わんぬ。いわゆる、善覚寺の道阿弥陀仏、長安寺の能安等これなり。
その後はただ悪口を加え、無知の道俗を相語らい、留難を作さしむ。あるいは国々の地頭等を語らい、あるいは事を権門に寄せ、あるいは昼夜に私宅を打ち、あるいは杖木を加え、あるいは刀杖に及び、あるいは貴人に向かって云う「謗法の者」「邪見の者」「悪口の者」「犯禁の者」等の狂言、その数を知らず。終に去年五月十二日戌時、念仏者ならびに塗師・□師・雑人等。
(419)
法然大罪御書
かの浅き経の読誦等の句に華厳・方等・般若等をいるるだにも不思議なるに、後八年の大法たる法華涅槃・大日経等をば通じ入れて上品上生の往生の業とするだにも不思議なるに、あまつさえ称名念仏に対して「法華経等の読誦はじちには往生せず」なんど申して、日本国中の上下万人を五十余年がほど、謗法の者となして無間大城に堕としぬる罪は、いくらほどとかおぼす。まず法然が亀鏡にささげたりし双観経の本願の文には「ただ五逆と誹謗正法とのみを除く」と法蔵比丘いましめをかねてなし、正直捨方便の法華経には「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば乃至その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と記しおかれたり。
(420)
故最明寺入道見参御書
寺々を挙ぐ。日本国中、旧寺への御帰依を捨てしめんがためなり。天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、これを申す。また立正安国論これを挙ぐ。総じて日本国中の禅宗・念仏宗。
(425)
御衣布供養御書
御衣布給び候い了わんぬ。この御ぬのは一物の御ぬのにて候。また十二いろは、たぶやかに候。御心ざしの御事はいまにはじめぬことに候えども、ときにあたりてこれほどの御心ざしはありぬともおぼえ候わず候。かえすがえす御ふみにはつくしがとう候、恐々謹言。
乃時 日蓮 花押
御返事
(426)
依法不依人の事
おさまらず、法華経の五字□□□□おさまるというか。
答えて云わく、しかなり。金ににたる石あり、また実の金あり。珠ににたる石あり、実の珠あり。愚者は金ににたる石を金とおもい、珠ににたる石を珠とおもう。この僻案の故に、また金に似たる石と実の金と、珠に似たる石と実の珠と、勝劣をあらそう。世間の人々はいずれを是ということをしらざる故に、あるいは多人のいうかたにつきて一人の実義をすて、あるいは上人の言について少人の実義をすつ。あるいは威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をすつ。仏は「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」といましめ給えども、末代の諸人は「依人不依法(人に依って法に依らず)」となりぬ。仏は「依了義経不依不了義経(了義経に依って不了義経に依らざれ)」とはせいし給えども、濁世の衆生は「依不了義経不依了義経(不了義経に依って了義経に依らず)」の者となりぬ。
あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。法相宗・三論宗等も皆、我が依経を本として諸経を釈するなり。されば、華厳宗、人多しといえども澄観等の心をいでず。彼の宗の人々、諸経をよめども、ただ澄観の心をよむなり。全く諸経をばよまず。余宗またかくのごとし。澄観等、仏意にあいかなわば、彼らまた仏意に相叶うべし。澄観もし仏意に相叶わずば、彼の宗の諸人また仏意に相叶うべからず。一人妄をさえずれば、諸人妄をつたう。一人まつり事おだやかならざれば、万民苦をなすがごとし。
当世の念仏者、たとい諸経・諸仏を念じ行ずとおもえども、道綽・善導・法然等の心をすぎず。もししからば、道綽禅師が「いまだ一人の得る者有らず」の釈、善導が「千の中に一りも無し」の釈、法然が「捨閉閣抛」の四字謬りならば、たとい一代聖教をそらにせる念仏者なりとも、阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」の者とならんこと疑いなし。これひとえに、「依法不依人」の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失のいたすところなり。 問うて云わく、人に依るが失ならば、なんぞなんじは天台・妙楽・伝教大師に依るや。
答えて云わく、あえて天台・妙楽・伝教大師を用いず。ただ天台・妙楽・伝教大師の引き給える証文によるなり。例せば、国をおさむる人、国の中のまつり事、三皇五帝等の三墳五典にて賞罰をおこなえば、聖人・賢人とはいわるれども人を罰する罪によりて悪道におちず。しかるを、重罪の者を愛するによりて軽罪におこない、奉公あるものを悪むによりて賞せずなんどあれば、現世には佞人のなをとり、国やぶれ、未来にはあしき名をながすなり。これひとえに、文書に依って人によらず、人によりて文書によらざるによりて、賢愚はいで来るなり。
当世の僧俗、多くは人を本として経文を本とせず。ある者云わく、日蓮は善導和尚にはすぐべからず。あるいは云わく、日蓮見るほどの。
(427)
良観不下一雨御書
人、二百五十戒の諸僧数十万人を集め、八万法蔵を読むといえども、何ぞ一雨をも下らさざる。竜王の慳貪か、諸仏の妄語か。良観上人、身・口は仏弟子に似るといえども、心は一闡提人たるか。