御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野殿御返事 1512頁 新版御書1869頁 54歳御作

(312)

上野殿御返事法華経の御命の事)

 建治3年(ʼ77)7月16日 56歳 南条時光

 むぎひとひつ・かわのり五帖・はじかみ六ぱ、給び候い了わんぬ。
 いつもの御事に候えばおどろかれずめずらしからぬようにうちおぼえて候は、ぼんぷの心なり。せけんそうそうなる上、おおみやのつくられさせ給えば、百姓と申し、我が内の者と申し、けかちと申し、ものつくりと申し、いくそばくこそいとまなく御わたりにて候らんに、山のなかのすまい、さこそとおもいやらせ給いて、とりのかいごをやしなうがごとく、ともしびにあぶらをそうるがごとく、かれたるくさにあめのふるがごとく、うえたる子にちをあたうるがごとく、法華経の御いのちをつがせ給うこと、三世の諸仏を供養し給えるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし。尊しとも申すばかりなし。あなかしこ、あなかしこ。恐々謹言。
  七月十六日    日蓮 花押

 

現代文を載せます:

麦一櫃、川海苔五帖、しょうが六十、確かに受け取りました。

(御供養を頂くのが)いつものことなので驚きもせず、珍しいことでもないように思ってしまうのは、凡夫の心のなせるわざである。世間はあわただしい上に浅間神社が造営されるので、百姓と言い、屋敷内の者と言い、食物の欠乏と言い、農耕の時と言い、どれほどか暇なく過ごされているであろうのに、身延の山中の住まいはどうであろうかと心配されて、鳥が卵を育むように、燈火に油を添えるように、枯れた草に雨が降るように、飢えた子に乳を与えるように、法華経の御力を継がせられることは、三世の諸仏を供養されていることであり、十方の衆生の眼を開く功徳となろう。その尊さは言いようがない。

あなかしこ、あなかしこ。恐恐謹言。

 

感想:南条時光からの御供養に対する御礼のお手紙です。いつも御供養をいただいて普通に思ってしまっているのは凡夫やからやね~~仏ならもっと感謝すべきところやね、と言わんばかりの言いようではないですか。山中の大聖人を心配してくださっていることに対して、何度も色んな譬えを繰り返して表現されているところに深い感謝の思いが伝わってきますね。こんな手紙なかなか書けないですよ。

十方の衆生というのは、日本中、世界中の人々って感じ、その眼を開く功徳ってすごいことですよね。尊さも譬え方が半端ない。大聖人は南無妙法蓮華経で日本中の人々の眼を開くと開目抄で言われているので、その大聖人の命を色んな御供養の品々で支えているということがすごい功徳になるよと言われているようです。このお手紙を読んで、時光はうれしかっただろうな、と思いました。